犬雑記帳

様々なジャンルについて、思ったことを記事にします。

文系修士課程に入学して1ヶ月―日々の「恥ずかしさ」と進路について―

こんにちは、innu_inuです。

 

大学院に入学してみて

4月に大学院に内部進学してから、1ヶ月が経ちました。弊学は、「田舎」の弱小F寄り大学で(言い過ぎ?)、学部時代はとにかくゆるゆるでした。そして、大学院に上がってみて、突然、ハードモードになって、結構ヒイヒイ言っている毎日です。

 

 

そもそも私は、非常にペース配分が悪い人間なんです。例えば、学部時代、レポートについては、なかなか書き始めなければ、書き終えるまでにめちゃくちゃ時間をかけまくり、締切ギリギリに提出していました。

だから、外国語の精読の課題についても、取っ掛かりが遅いうえに、「辞書を引かないと不安になる症候群」なので、知っている語でも辞書を引きまくり、訳をウンウン考えて……とダラダラやっているので、何時間もかかってしまいます。

 

本当に要領が悪いです。

 

 

私のスペックと授業のレベル

おそらく、大学院の授業の予習が大変なのは、要領が悪いことだけでなく、私の能力不足も理由として挙げられると思います。

 

 

あんまりこのブログでは書いたことはありませんでしたが……一応、私は高校までは華々しい(?)経歴の人間なんです。

中学では成績ほぼトップ&生徒会長で、いかにも優秀そうな生徒でした。出身高校は、その地域の中では、50年以上、偏差値ランキング上位にランクインしていて、非常に有名でした。いわゆる「田舎の名門」というやつです。特定の切り口でみた「偏差値ランキング」では、全国一位になるような高校でした(当時)。

その高校へも成績上位で入学して、3年間、成績は上位10-15%で推移していました。

 

しかし、高3の春くらいから、ガチの受験勉強からドロップアウトしてしまったのです。周りがみんな、一日14時間とか勉強して、机にかじりついていることに、非常に違和感を感じたり、無機質で大学受験に特化した勉強に、面白みを全く見いだせなかったのです。

直前期で、せいぜい勉強しても3時間くらい。けれども、模試の成績も学内試験の成績もあまり落ちませんでした。挙句の果てには、先生から「貴方なら、難関私立大学も一般受験で受かるよ!」と言われ、指定校推薦が貰えませんでした(嫌がらせかもしれないけど)。結局、センター試験(当時)も8割は越えていたのでした(勉強してない割には取れたほうだと思っている)。

 

 

最終的には、大学受験は1校以外全落ちしました。私立専願で受験して、有名大学は、総じてダメ……。模試でA判定が出ていた大学も落ち…「なぜ?」という感じだったのですが、どうやら、その年の私立大学受験は、大学の入学定員厳格化のせいで、前年までに比べて相当厳しいものになっていたそうです(ひとのせいにするな)。

 

唯一通ったのは、「寝てても受かるよ!現役にこだわるならココまで落とせばおk!」と言われるような田舎の弱小F寄り大学のセン利でした。大学受験が馬鹿馬鹿しく感じられたがために現役にこだわっていた私は、滑り止めとして、念の為、ここを志望していました。担任からは「え、まじで受けるんでいいんだね?確かに紹介はしたけど…汗」と言われました。

 

 

自分より成績が下の子たちは、指定校推薦で名門大学に進学が決まっている中で、私だけ、真面目に受験してFラン…という現実が惨めに感じられました。

もちろん、この状況なので浪人することも考えました。しかし、これまでに述べた理由と相まって、早く大学で勉強がしたかったので、現役でFラン大学に進学することに決めました。

 

ちなみに、私が通っている大学が、本当にFランなのか?というと、おそらくそうではないですこの「Fラン」という表現は、受験前、高校同期が、後に私が進学することになる大学のことを、「MARCHや関関同立未満なのでFラン」「誰も知らないゴミ大学」と揶揄していたことに由来します。

だから、世間的にみると、そんなにFじゃないんです…別に擁護したいわけではないのですが…。全国の大学を広くみて判断すると、そんな感じです。けれども、進学校出身者の界隈では、当然に「Fラン」なので、そのように呼ぶことにしています。

 

 

先程、大学院の授業の予習が大変なのは、私の能力不足に起因する、と書きました。

これでは、「いやただエリート(笑)ルートから落ちこぼれたのを良さそうに言い訳してるだけ」「Fランだけどお前らとは違うんだよ!エッヘン!とでも言いたいのか?」と言われてしまいそうですね。

 

 

私が言いたいことは、

Fラン大学の大学院であれ、授業内容はそれなりに高度であること

Fラン大学の大学院の授業の予習は、そこそこの地頭(高校受験時偏差値72、大学受験時S台模試偏差値50-55)があってもきついこと

です。

したがって、

大学院の授業が求めるレベルを考えると、標準よりちょっぴりできるくらいの私の能力では、著しく不足しているということ

がいえるでしょう。

 

 

一般に、Fラン大学に通っている学生は、中堅レベル以下の高校出身の方が多く、世間的にもそのように認知されています。そのため、「Fラン大学大学院だけど授業きつい」と書いたら、「いやそりゃFランに行くような地頭だからね…」と言われてしまいまいそうです。だからこそ、地域トップの進学校に行けるくらいの地頭はある院生であるということを、ここで明らかにしておきたかったのです。そして、一般的な想定と比べた「ズレ」があるということを前提としないと、話の趣旨を伝えきれないので、このようにしました。

優越感に浸ろうといった気はありません。

 

 

 

「恥ずかしさ」とは

授業では、先生からのダメ出しが相次いでいて、情けなさ・恥ずかしさが半端ないです。

 

「なんでそんな訳になるの!」「ここ主語が違う!」「ここ、文法間違ってる!」「どうしてレポートをそんな書き方をするの!怒鳴りたいよ!」「これじゃあ○○の分野の論文になっちゃうから、書き直し!」「文章すらまともに読めてないね!」「こんなことも知らないの!」などなど…。ちなみに、文系です。

 

私も、どうしてこんなにできないんだろう…という感じです。先生方を絶望の淵に追いやってる感でいっぱいです…。本当に申し訳ないです。それでも、きちんと丁寧に指導してくれる先生は、「菩薩」だなあと思いました。

 

 

最近思ったのですが、このような類の情けなさや恥ずかしさは、

・過去に「なんであんなこと言ったんだろ」と思い返して、アーってなるような恥ずかしさ

・裸を見られるときの恥ずかしさ

・好きな人を前にして緊張するときの恥ずかしさ

を上回るものだと思いました。

これからは、好きな人ができたらスグに告白したり、裸でそのへんを歩き回ったりできる気がしてきました(極端)。

 

 

なにより、他の同期や先輩は、いつも涼しい顔をしているんですよね…自分ばっかり「ウワアアア」となっているような感じがします。

特に、彼らは先生方から指摘されないんですよね。「いいんじゃない?」という感じで、のらりくらり進んでいるように見えます。

 

個人的には、指摘されないでスルーされる方が辛いので、キツめに?注意されたり指導されたりするほうがありがたいです(これがFラン大学大学院の醍醐味かもしれないとすら感じている)。しかし、その反面、「どうしてこんなにできないんだ…?こんなんでよく修士課程に所属できるな…?」「よく先生方に顔向けできるな…」とか思いはじめて、めちゃくちゃ恥ずかしくなります。こんな低レベな院生のために時間を取ってもらってしまっていると思うと、なんとかしてレベルアップせねば!と奮起はするのですが、やっぱり情けないですね…。この情けなさ、ハンパないですね…胸の奥からジワーッとこみ上げてくるものがあります。

 

 

 

進路を考える

一応、私は2年で修士課程を終える予定なので、その先のことを考える時間は、そこそこまだ残っています。だから、焦る必要はなく、まずは目の前の予習課題をこなすことが大事かとは思いますが…なんとなく、考えてしまいます。

 

 

私のなかには、どうしても、結婚・出産を重視する古い価値観が植わっています。どんなにいろんな勉強をしても、この固定観念を取っ払えず苦しんでいます。出産には年齢的なリミットがあること、私みたいなモテない女は、若さしかセールスポイントがないため、若いうちに婚活をしないと完全に婚期を逃すだろうということが、依然として頭の中にこびりついています。すると、博士課程に安易に進むこともできないのです。もちろん、学生結婚をした先生方、先輩も多くいらっしゃいますが、私は、その方々のように結婚と研究を両立することができないでしょう。なにより、もともと出会いがなく、結婚のためにはそれを自ら作り出さねばならないため、その場合、研究どころではなくなりそうです。

 

 

その他の問題?

結婚・出産問題のほかにも、研究費的な問題(学振が取れるはずがないから、借金せざるを得ないし、学振が通らない時点で…)、生活費の問題(いつまで親のすねをかじるのか)、研究能力の問題(頭が悪い)、就職の問題(学部卒のときに書類だけで全落ちしたやつが、博士課程まで行ったら、ますます自分を拾ってくれるところを失う)など、問題が山積みです。

 

 

博士課程進学で人生破滅?

よく博士課程に進学すると、人生破滅だ!とか、人生オワコンになるとか、取り返しのつかない失敗になる、とか言われています。ただ、すでに大学受験も就活も失敗して、さらに、友達も彼氏もできなくて貯金もなくて人生オワコンなので、これ以上悪くなる要素があんまりないんですよね…借金と親不孝の度合いがさらに増すことくらいでしょうか。仮に修士卒で就活したところで、せいぜい派遣社員になれたらいい方で、世の中の素晴らしい修士卒の人たちとは明らかに条件が違うと思っています。

 

(誰からも嫌われ、やっかまれ、嫌がらせされるし、面接官が履歴書を見れば非難や暴言を言ってくるし、私自身、虚弱体質で仕事を選ぶ方の人間だから、現時点でめちゃくちゃ悲観しています。)

 

そういった、博士程における、読み手を異常に煽るような、センセーショナルな「マイナスな部分」を動画やブログにまとめている人もいますが、その多くは修士卒の方で、博士課程まで進学されなかった方である感じがしています。すなわち、博士卒の人は、−生存者バイアスはもちろんあるとは思いますが−、そこまで読み手を煽るような「マイナスな部分」ばかりを挙げることはしていないと思います。だから、一概に、博士課程=人生オワコン、とは言えないと、私も思います。まぁ文系でもそういえるかは微妙なんですけれどもね。

 

 

現段階での方向性

まだ修士一年なので、目標は高く(?)、博士課程進学希望ということでやっていこうと思っています。

 

そして、指導教員から、博士課程では研究する大学を変えるように言われているので(よっぽど指導が嫌なんだろう苦笑)、よその大学院を受けることを私の中の絶対条件としました。

希望する大学院に全落ちしたら、進学は諦めようと思っています。それは、研究能力が見込めないってことだと思いますので…。

 

そうしたら、まぁ自由に生きようかなと思います。婚活に励むとか、バイトをして親に借りた分を返すアテを作ったり、起業してみたり?…。色々と企てはあります!だから、それはそれで楽しそうで、ワクワクしています。履歴書の空白なんて怖くないですからね〜。

 

ーーーーーー

 

そんなわけで、修士課程に入学してみて一ヶ月、リアルな感情と進路への悩みをまとめてみました。こういう内面的なものは、リアルタイムで書かないと忘れてしまうので、ホカホカなうちにブログにまとめておこうと思いました。

 

 

 

〔独白〕ぼっちで卒業式に参加したけど、とても楽しかったので余韻が凄い。

こんにちは、innu_inuです。

 

先日、卒業式に参加し、学位記を頂いてきました。

私は、友達もいないし、指導教員も当日は学校に来(れ)ないということで、正真正銘の「ぼっち」でした。それでも、頑張って参加してみたら、思った以上に楽しくて、予想に反してめちゃくちゃ思い出に残る日になりました。

この記事を書いている今は、卒業式から既に数日以上経っているのですが、未だに余韻が凄い…「祭りのあと」という感じなんです。

 

そんなわけで、卒業式の余韻に浸りながら、卒業式の想い出を記録として本記事に残していきたいと思います。

 

 

突然の式典参加決意

そもそも卒業式に参加するつもりは、なかったんです。なぜなら、春から大学院に内部進学する身だし、何せ友達がいないから。

 

けれども、突然、そうはいかなくなりました。それは、卒業式でなぜか大役を任されたから。

人前にでなければいけなくなったわけです。

 

そうとなれば、本気で準備するしかないでしょう。

 

袴姿になろうと思い、袴の準備。

手持ちの(親の)着物を着るために、代わりにこれを管理してくれている祖父母に連絡。長年通っている美容院の予約の電話(めちゃくちゃ急なのに対応してくれて、神…。感謝です)。レンタルだと汚したり破いたりしたときの賠償金が怖いので、袴を注文(業者さんに迅速にご対応いただけて、本当に感謝です)。必要なものは、ネットショッピングで探しまくって注文。

 

この準備期間、本当にバタバタしていて大変でした。

自分で「式典に袴姿で参加する」と決めたのですが、本来「袴で参加しなければならない」というルールはありません。だからこそ、「わざわざ、ない見栄をはろうとするから、こんなに大変なことになるんだ」と自責の念に駆られました。

この意志の弱さが、周りの家族に迷惑をかけまくったのです…ほんとにだめな人間だ。

 

 

ネガティブ思考を植え付ける事実

なんやかんや、「やると決めた以上は…!お金もかかってるし、もう止められない!」と心を鍛えながら、袴関係一式を揃え、式典の前日を迎えました。

 

 

式典の前日は、一応「リハ」ということで、当日の動きを確認するというものでした。そこで、衝撃の事実を知ったのです。

※ここで事実を書くと特定されてしまうかもしれないので、メチャクチャぼかして書きます。

 

あんただけやで〜と言われてたのに、あんただけやなかった。てか、紛らわしい同一地位の人がいはった。

 

といったところでしょうか。

私はショックを受けました。紛らわしい同一地位の人が私含めて二人もいたら、どうせ「こっちが本物で、あっちは偽物」などと言われるのだろうと思ったからです。役割は違えど、同じ呼び名の人が二人もいたら、多くの人は、どっちかが上で、どっちかが下などと考えがちかと思います。

 

そういった「紛らわしい存在」になるのが苦痛でたまらず…。

結局、そういったマイナスの気持ちは消えぬまま、式典当日を迎えるのでした。

 

 

式典当日

ついに式典当日。

長年お世話になっている美容院から学校まで移動するには、大変時間がかかります。そのため、深夜からヘアセット・着付けをお願いすることに。

 

深夜、暗闇の中、ぽつんと光る一軒の建物(美容院)が、心を暖かくしました。

「ああ、こんな私を待ってくれてるんだ」

 

ニコニコと美容師さんが出迎えてくれ、楽しく会話をしながら、ヘアセットと着付けをしてくれました。

 

 

仕上がりが最高。素晴らしい以外の言葉が出ない…なんて美しいんだろう、と、自分の袴姿に見とれました(私のようなブサイクな素材を綺麗な方へ生かしてくれる天才美容師さんなんです)。

髪型も着付けも、とても素敵なんです。

きれいに仕上げてくださって、本当に感謝です。

 

このあたりから、昨日のマイナスな感情や憶測は、どうでもよくなりました。

 

るんるんで大学へ向かい、堂々と式典の座席へ着席。

隣の席には、その紛らわしい存在の一人が座っていました。でも、そんなことはもはやどうでもよかったです。それは、自分の袴姿がきれいで、大好きだから。もともと少しナルシシスティックな側面があるのですが、当日は、自分のことが可愛くてしょうがなかったです。

 

人からどう思われようが、どうでもよくなりました。自分さえ良ければ…(良い意味において。誰かとの間に損得が働かない場面において)。自分で自分を正当に評価し、自分に100点満点をあげられれば、周りのことなんてどうでも良いということに気づいたのです。

 

式典は無事終了。

その後もなんやかんやあって、楽しかったです。

 

 

かつて薄い「つながり」があった人たちとの「最後」

事務的な書類をもらうために並んでいたところ、背中が生暖かく感じられ(きもちわるいほどの温さを感じた)、「なんだ?」と思いました。

 

「おーい、久しぶり。」

 

私にではなく、私より前に並んでいる同期に話しかけていました。なんだか聞いたことのある声だなあ…と思い、考え込んでいたところ、

 

サーセン、ちょ、サーセン

 

とこちらに謝りながら、私と数名を追い抜かし、前方の友達の方へと割り込んでいきました。

そのときようやく、「ああ、一、ニ年のゼミの同期で、同じクラスの子だ」と気づきました。

 

2年もゼミが一緒だった上に、語学のクラスも一緒だったので、なんとなく、勝手に親近感を覚えていた人でした。

友達と合流すると、春からどこどこに就職するんだとか、地元には帰らないんだとか、そんな話で盛り上がっていて、「彼も立派に就職するんだなあ…」と、思ったのでした。勝手に親近感を抱いていた学生といえば、彼を含めて二人だけでしたから(少なすぎ)、卒業式という日に彼を見れて、なんだか良かったなと思いました。あれ、これってストーカー的?

 

ほかにも、敷地内には、かつて私に罵声を浴びせてきたような嫌いなやつから、ただの顔見知りのやつまで、様々いて、なんだか懐かしい気持ちになりました。2年間もまともに大学に行ってなかったので、気分は大学2年生に戻ったような感じです。

 

 

古きを温めても、新しきを知っても

たまたま真後ろにいた方は、かつて学部の授業で一緒になった先輩でした。一緒に実習をした方でしたが、連絡先を交換するまでの仲ではありませんでした。

先輩は、弊学の大学院を修了されたということで、卒業式に参加されていました。

 

かつて知り合いだったとはいえ、今更話しかけられても困るだけだろうか…?

とはいえ、覚えてもらっていなくても、新しく「大学院の後輩」として覚えてもらえばいいのでは…?

 

と悩み、思い切って声をかけてみることにしました。 

すると、やはりすぐには思い出されなかったものの、「あああなたね!」と社交辞令なのか分かりませんが、思い出したと言ってくださり、色々とお話をすることができました。 

 

自分だけが覚えているような「古い関係」に固執しすぎたり、また、それを相手に押し付けたり、さらに、古い枠組みのなかに相手をはめ込んだりする必要はなく、反対に、新しく関係性を構築していけばよいのだということに気づきました。覚えていてくれているだろうか…と思うと、声がけするのは少々萎縮してしまいますが、いっそのこと、新しく友達になろうという方向へ割り切ってしまえば、そういった恐れはなくなります。

 

 

大学時代に気になった唯一の学生

大学時代にできた友達は、一人もいません。

友達を作ろうという気は全くありませんでしたから、当然の結果です。

もちろん、恋人も一人もできませんでした。

 

しかし、ただひとり、気になる学生がいました。

語学のクラスと1年のときのゼミが一緒、その後、何度か少人数の授業で一緒になった学生で、かつ、事務連絡をするために連絡先を交換した学生でした。彼こそが、先ほど述べた「勝手に親近感を抱いていた2人の学生」のうちの1人です。

 

「好き」とかではなく、「なんか、この人面白いな」みたいな感じですかね。言動が人並みではないんです。

大学に毎日通っていた前半2年間は、体力的につらいことも多かったのですが、彼を見て、ちょっと笑って、元気をもらっていたということもあって、ある意味で、私の中で「憧れ」的な存在になっていました。

 

そんな彼を、卒業式の日に、ちらりと見ることができました。

集団の写真撮影をしてあげているところでした。

 

楽しそうで、なによりでした。

楽しそうな姿を見られて、友達でも恋人でもないくせに、なんだか心がほっこりとしました。彼のいない大学は寂しくなるなぁ・・・とすら思いました笑

 

 

記念写真

ぼっちだけど、校門で写真を撮りたい・・・!

そう思い、くそ長い写真撮影の列にならびました。

 

並び続けること1時間半(!!)、ようやく順番が回ってきました。

もちろん友達がいないので、シャッターを押してくれる人はいません。そこで、勇気を出して、後ろに並んでいる人に、シャッターを押してくれないかと頼んでみました。すると、快く引き受けてくださったのです。

 

普段の私なら、知らない人にそんなお願いをすることはできないのですが・・・この日は、自分の姿に自信を持てていたからかもしれません、勇気が出ました。

 

引き受けてくれたお兄さんは、しゃがんだり、下がったり、寄ったりと、たくさん写真を撮ってくれました。その動きは、まるでカメラマン?、いや、子供の写真を一生懸命に撮るお父さんのようでした。知らない人相手にそこまできちんと撮ろうとしてくれるなんて、本当に良い方だなぁと思いました。

 

 

そして、ほかの撮影スポットでも、記念撮影。

そこでは、私に撮影をお願いしてきたお姉さんに、私の撮影もお願いしてみました。

すると、写真に映るものに気を遣ってくれて、非常に親切でした。やはり、たくさん枚数を撮ってくれて、ありがたかったです。

 

 

同級生か、年の近い人に、こんな風に親切にしてもらえたことなんて、ここ数年は全くありませんでしたから、とても感動しました。

また、これまでは、偏見なのですが、「同級生なんて頼りないな・・・」と思っていました。しかし、卒業式に参加している同期たちを見て、「かっこいいな」「立派だな」と思えるようになりました。これは、同期たちが自分の力で進路を切り開いているということや、現実と理想のはざまで折り合いをつけながらなんとか前を向こうとしていることを知ったからでしょう。

 

写真撮影の方法について、最近の若い子は、「撮るよ~はいチーズ!」とキメキメで1,2枚の写真を撮るのではなく、特に何も言わず何枚もバシャバシャ撮るのがツウなようです。確かに、その方が、決めポーズの前後の、自然な様子を撮影することができて、とても良いと思います。私の古い価値観を、アップデートしないとなぁ・・・と思いました。

 

 

袴姿っていいよね

袴姿っていいですよね。高い位置に重心が来て、胸元はすっきり、下にふわ~っと広がるから、なんだかドレスみたいで、豪華な感じがします。

修士課程を無事に修了できた暁には、また袴を着たいなと思いました!まぁ準備や手入れが大変なんですけれどもね・・・。

 

(消毒スプレーで、非常に気を遣いながら手を消毒していたのですが、着物にひっかかってないかとても心配です。最初から、除菌シートを使って除菌するようにすればよかったです・・・。次に着用するときは気をつけようと思います。)

 

 

卒業式で学んだこと

ここまで記事を読んでくださった方は思われるかもしれません、「いやなんの変哲もない卒業式やったやないか」と。

確かに、卒業式という大イベントで、ナンパも告白もされませんでした。先生方からも、学生からも、一言も「きれいだね」「似合ってるね」と言われませんでした。(美容師さんや家族がいっぱい褒めてくれたので、大満足です!)

 

しかし、いろいろと学んだことがあります。それは、重複してしまいますが、

・古い人間関係に固執せず、同一人物と新たな関係を築いていけば良いということ。

・記念写真の撮影方法。

・自分自身に自信を持てれば、他人の目など気にならなくなること。

の3点です。これは、実際にヒトの集合体のなかに行かなければわからなかったことだと思います。やっぱり私も「人間」なんだなぁ・・・と実感しました。

 

それに加えて、

・手間と時間のかかることを一生懸命やり、かつ、それを人前に発表すると、そのことが思い出になるということ。

も実感できました。抽象的な書き方になってしまいましたが、そんな感じです。

 

 

余韻がすごい

ほんとうに楽しかったです。

学位記を見たり、もらった卒業記念品を見たり、自分の写真を見たりして、数日以上余韻に浸っています。

こんなに楽しかったのは、私がこれまで「門出を祝う式典」をことごとく欠席し、節目のない人生を送ってきたからかもしれません。

 

 

そして、やっぱり寂しいからかもしれません。

私は浪人・留年をしたことがないので、22年間ずっと、同い年の人たちとほぼ足並みをそろえて生きてきました。そして、今年の春から、ほとんどの同期とは、違う道を歩むことになります。大方の人が歩む道(就職という道)から外れていくことに、どこか寂しさを感じます。この学部の卒業式は、いままで一緒に道を歩んできた「(抽象的な意味での)同級生」との別れなんだと思えました。

 

長い人生、ここは第一の分岐にすぎず、転職・結婚・出産などのライフイベントまでもを視野に入れて考えれば、さらなる分岐があるわけで、「同級生」と一緒に肩を並べて道を歩み続けるというのは不可能なはずです。

「人」の数だけ、道があるはずですから。

 

 

そんなわけで、卒業式から数日たったので、そろそろ余韻から抜け出さないと!と、思うようになりました。

何せ、修士課程での研究テーマすら決まっていませんし、入学式は目前に迫っています。やばいです。履修も決めないとだし、語学の勉強も始めなくてはいけません。

 

やっぱり修士課程に行くのやめようかな、と思うくらい、学部の卒業式が楽しかった。このきれいな思い出で、学生生活を締めくくりたいとすら思えてきました。久しぶりに「有終の美」が飾れてしまった気すらしました。

 

しかし、過去に満足し、それを引きずっているようじゃだめだし、まだまだやり残したことがたくさんあるんですよね・・・。「学士」であるだけでは、まだ満足できませんしね(笑)

 

この学部卒業式を超えるような、よりよい未来をつくる自信がない・・・けど、やると決めた以上はやるしかありませんね。客観的にみて完璧でなくても、自分で納得できるような結果が残せればオッケーだと思いたいです。

 

 

 

学部の時を超える結果と満足感を得られるよう、日々向上していきたいです。

「就活の定番スタイル」は、本当に「定番」たるべきか?―具体的であることの功罪―

こんにちは。innu_inuです。

 

「フレッシャーズ」という言葉をテレビでよく聞く季節になりましたね。もうすぐ入学式・入社式シーズンです。

 

大学の新入生は、おそらく入学式に向けてスーツを購入することになる方がほとんどかと思いますが、多くの方が「就活にも使える無難なスーツ」を選ばれると思います。大学四年間着用するからこそ、就活にも使えるような、長く着れるスーツを選ぶわけですが、なんだか「遊びゴコロ」があまりなくて、少し味気ない気がしませんか。

そうは思わない、別に就活スーツ好き!という方は、良いのですが、私なんかは、就活スーツに魅力を全く感じない方の人間です。そして、そんなふうに思ってしまう自分が嫌で仕方ないです。高いお金を出してまで買ったものが、嫌いなもの、好みでないもの、自分のスタイルにあわないものであるということに対して、どこか矛盾を感じるとともに、その事実と感情を変えられない「わがまま」を抱えることが辛いのです。

 

 

 

もちろん、金銭的な余裕があれば、おしゃれで体格にあったスーツと就活スーツとを分けられるのですが、そうもいかない場合もあります。何せ、大学一年の4月は物入りですからね・・・。

 

 

ならば、就活スーツという概念が解放されて、自由になってくれたらなぁ…と、四年前から強く思っています。そんな気持ちがきっかけで、「定番就活スタイル」に対する一考察を記事にしてみました。

 

私は、今度の春のライフイベントでスーツを着なければならない(相手側から「スーツで来てください」と言われているから)のですが・・・めちゃくちゃスーツ嫌いだから、スーツを着るのがいやでいやで仕方ないです。

 

 

私は就活スーツが嫌いである

私が持っているのは、大学入学時に、スーツの量販店で買ってもらった黒のスーツ1着です。グレーのチェックのスーツ、マーメイドスカートなど、おしゃれスーツはいくらでも売っていましたが、金銭的な都合(+店員さんのすすめ)で、就活でも使えるようなスーツを買うことになりました。そもそも、大学生活において、スーツを着る機会はあまりなく、就活が主な着用シーンになってきますから、これが一般的な選択かと思います。

 

 

もともとの私は、スーツのようなかしこまった服装は結構好きでした。中学校・高校の制服は、どちらも好きでしたし、小学校の入学式・卒業式で着たスーツ(と呼べるのか?)は、今でもお気に入りです。

 

大学入学式のときに、初めてスーツを着ました。最初はいいんですよね、物珍しくて・・・「ああ、新しい制服だなぁ」という新しい気持ちになれたんです。

 

 

しかし、少し着ただけで、自分のスーツに対して不満が出てきてしまいました。

スカートがゆるい。すぐに下に落ちてくるので、膝が完全に隠れるほど長くなって、歩きにくい。(試着時に、店員さんに「これ緩いんです・・・」と伝えたところ、「じゃあ滑り止めをつけときますね!」と言われ、滑り止めをつけてもらいました。しかし、滑り止めがそもそもヒップに触れないので、これをつけた意味がなかった。)

・タイトスカートなので足の自由が効かない。(別にきついわけでもないですが、中学・高校時はプリーツスカートだったので、タイトスカートに対しては違和感があります。加えて、ズルズル落ちてきて、膝が隠れるほどの長さなので、本当に足の自由が効きません。)

・肌色に合わない。(黒色が、どうも私には似合わないんです・・・。黒を合わせると、顔が黄色く見えます。)

・喪服っぽくて気分が上がらない。(これは完全にわがままな主観です。)

 

入学式後に着たのは、せいぜい5回です。

そして、昨年、スーツを着たときに、アッッ!となってしまったのです。

「上腕と胸板がきつい!」

近年、重たい荷物を持つことが増えてきてしまい(12キロの段ボールを持って、階段を上り下りするなど)、上腕がなんとなく太くなってきてしまいました。そして、ジャケットの腕周りがパンパンになってしまったのです。腕すらも自由に動かなくて不便です。

 

自分の体格に合わなくなった(これは、自己管理が悪いが故の自業自得ですが・・・)ことで、ますますスーツが嫌いになってしまいました。

 

 

そして、スーツ嫌いの最大の理由、それは、就活スーツにはパンプスを履くことが「ルール」となっていることに苦痛を感じるからです。私も、大学入学時に3センチヒールのストラップ付きパンプスを買ってもらって、それをスーツ着用時には履いているのですが、やっぱり足が痛いです。

 

 

私は、普段からヒールのある靴を履きませんし、小さい頃に「履きたい!」と思ったこともありません。そもそも扁平足なので、ヒールの高い靴を履くと、足の筋?筋膜?がつっぱるように伸びて痛いのです。

 

 

バレエシューズ・フラットシューズも、かかとの形と足の甲の高さがいまいちフィットせず、すぐに脱げてしまうので履きません。ちなみに、一回だけ大学に履いていったことがありますが、かかとは血だらけ、足の指5本の側面から出血で、ストッキングは血まみれになり、大変なことになりました。このストッキングは、捨てました。

小学生のときの上履きも、よくあるバレエシューズではなく、ベルトでしっかり固定するタイプの「靴」でした。↓こんな感じのやつです。

item.rakuten.co.jp

 

どうやら私の足は、履く靴を選ぶ足のようです・・・。

そういうわけで、普段履く靴は、スニーカー、紐靴(いわゆるおじ靴)、運動靴の3種類です。足首までフィットするやつが一番です。

 

パンプスを履くと、必ず、爪と爪とがけんかして、指の側面から血が出ます。どんなに爪を短く切っても、です。また、歩いていくうちに、どんどん足が前に滑っていってしまい、靴の中がぎうぎうになって、本当に苦しくて痛いのです。

靴が悪いなんてことはないと思います。ただ、私の歩き方と足の形が悪いのだと思います。

 

 

スカートスーツを着る場合、必ずパンプスを履かなければいけない・・・これは、もはや社会のルールと化しているような気がします。パンプスを履きたくない私は、スーツも着たくないです。

じゃあパンツスーツを着れば、オックスフォードシューズとかが合うから、そうすればいいじゃん?といわれてしまいそうですが、パンツスーツも苦手なんです・・・。ストッキングと裏地が擦れ合い、静電気を起こして吸い付くような感覚がめちゃくちゃ苦手なんです。あと、いろいろ個人的に大変なことがありますね。

 

どうして、スーツのタイトスカート(黒)とおじ靴って、合わないんでしょうか・・・(絶望)。

 

以上、私がスーツ嫌いな理由は、

・就活スーツが自分に合わないから

・就活スタイル=黒スーツスカート・パンプスが固定観念化しているから

・パンプスを履くと痛いから

というように、まとめられると思います。

 

 

就活スタイルが固定観念化していくということ

就活生の女性は、黒ジャケット、白ブラウス(面接時はレギュラーカラーのものを、第一ボタンまで閉めよう)、黒タイトスカート(膝の半分くらいまでの長さ)、3-5センチのヒール、自立する黒い鞄(A4サイズが入るもの)を用意しましょう。

 

誰かに指示されたわけでもなく、学生はみんなこのようなルールにきちんと従っています。このスタイルルールに反した者に刑罰が与えられるわけでもないのに。おそらく、「無難」を求める心、「みんなと同じことをしておけば目をつけられないだろうから」といった安心感を求める心から、そうなるのでしょう。

 

 

個人的には、スーツメーカーや大学生向けファッション誌・メディアなどが、「定番就活スタイル」というのをはっきりと打ち出していることに多少の違和感を覚えます。

 

※スーツメーカー等が打ち出している「フレッシャーズ」の宣伝では、様々なスーツスタイル(おしゃれなものから、就活スタイルまで)を提示しています。

ここでは、「就活スタイル」という名目で提示されているスーツスタイルを指しています。

 

※就活スーツ≠フレッシャーズスーツ

フレッシャーズスーツ⊃就活スーツ

と定義できるでしょう。

 

 

わかりやすいことは、もちろんいいことです。はじめてのスーツ、何を用意したらいいのか全くわからない人にとっては、とても参考になることでしょう。

しかし、何年にもわたって、様々な会社やメディアなどが「定番就活スタイル」と称して、詳細にどのスーツ・どの靴と、実際の商品を用いて説明することによって、そのスタイルから逸脱できない風潮を作り出してしまったような気がするのです。

 

 

あえてグレーゾーンを残しておけば、多少の選択の余地はあったのでしょう。

例えば、

就活生の女性は、落ち着いた色のジャケット、ブラウス、落ち着いた色のスカート、華美でない革靴(合皮も可)、A4サイズが入る自立する鞄を用意しましょう。

とした場合、どうでしょうか。

 

一義的に「就活スーツ」は定まらないものの、本人の意思である程度は選択できると思います。例えば、茶色のセットアップに、色つきのブラウスでもOKでしょうし、長めのフレアスカートにサドルシューズを合わせることもOKでしょう。

この場合、現在のように、実際の商品を使った写真モデルを1パターンにしてはいけない、ということに留意する必要があると思います。なぜなら、就活生に、「ああ、こういう風に書いておきながら、こういった1パターンしかないんだ」と思わせてはならず、また、(こういった曖昧さを残している文章である以上)1つの型にはまるように意図的に誘導するようなことがあってはならないからです。(※個人の意見です)

 

 

 

わかりやすいこと・詳細であることは、時に、仇となる場合があるようです。

というのは、具体的に「これ」を示すことで、それはわかりやすいけれども、「これ」から逃れられなくなってしまう場合があるからです。

 

 

ルールを作るときにも、あまり明確に・詳細に作りすぎてはいけない、普遍的なものとなるように作るべきだーこんな風にいう人がいるように(自分の周りにはたくさんいました)、「定番就活スタイル」もあまり具体性・明確性を伴わないように、あえて曖昧な部分を残しておくべきだったのではないかと思います。

 

あまりよい具体例が思いつかないのですが・・・あえて一つあげるとすると、

小学生の遠足で、「おやつ」のルールを決めるとしましょう。

先生は、「『おやつ』とは、例えば、チョコレートやグミ、キャンディなどです」というとします。すると、おそらく子供は、「バナナはおやつに入りますか?」と聞くでしょう。そして、先生は、「それは入ります」と答えるします。すると、他の子供たちは、「じゃあ、さくらんぼは?」「ポテチは?」と、どんどん例に挙げられていないお菓子が、「おやつ」にあてはまるものなのかと聞いてくることでしょう。

 

「定番就活スタイル」に関しても同様に、私自身、「じゃあ紺色のジャケットやグレーのジャケットは駄目なの?」とか、「スキッパーのブラウスはだめなの?」などと疑問に思うことがあります。

 

先の例では、聞いたら普通に教えてもらえる環境(先生と生徒)であるからこそ、具体例を挙げる弊害は発生しません。しかし、就活の場合、面接先企業に、「グレーのスーツで面接に行ってもいいですか?」「足が痛くなるのがつらいので、フラットシューズで行ってもいいですか?」なんてことを、安易に問い合わせることは、なかなかハードルの高いこと(もしくは、できないこと)だと思います。

 

 

 

もちろん、だからこそスーツメーカーなどは、具体的に商品を使いながら「定番」を説明してくれているのだと思います。しかし、身体的事情(パンプスの場合)や個人的信条(黒いスーツは絶対に着たくない!とか?、レギュラーカラーは、首が短いので苦しくてつらい!とか?)から、そのガッチガチに作り上げられた「定番」から外れざるを得ない人・可能であれば外れたい人は、その具体例の存在により、困りはててしまうのです。

 

最悪の場合、その「定番」から外れるような人は、「社会不適合者だ」という烙印を押されてしまう場合すらあります(もちろん、多くの企業が寛容であるとは思いますが・・・)。

 

 

めちゃくちゃ個人的な意見ですが、フレッシャーズといえば、もう18歳の成人なのですから、そんなに細かく教えなくてもわかるはず、というよりかは、一定以上のことは、自分で考えて決めなさい(そもそも「定番」を提示されなくてもわかるはず)、そんな風に思います。

 

自分で考えて、決めて、行動する、その責任を取れる範囲で取る―こうして初めて、本当の自由が得られるのだと思います。

 

また、社会は、具体例を細かく挙げていきガッチガチの「定番」を作り上げる場合、その「定番」から外れてしまった人たちに対しても寛容であってほしいです。もしくは、「定番」を作らず、あまりにも極端に不適切な場合(例えば、式典にふさわしい服装を要求する場に、ジャージで来た場合)にのみ、それを是正するよう促すという方がよい、もっと寛容であるべきだと思います。

 

 

「面接にふさわしい服装ってなんだ・・・?」というように、曖昧であることに対して困惑すること多いは思います。だからといって、何を着ればよいのかを詳細に指示してもらえばすべてが解決できるとは限りません。

詳細に指示され、それに従うことで得られる安心感とともに、「指示」からはみ出ることができないという窮屈感、また、周りの人も「指示」に従うがゆえに発生する同調圧力を得ていることをいやいや自覚せざるを得ない場合があると思います。

 

 

 

「定番」への抵抗と同調圧力

私は小心者なので、こんな偉そうなことを書きながら、「定番就活スタイル」に抵抗したことはほぼありません。しかし、大学同期や面接で同じグループになった学生の中には、それに抵抗している人を結構見かけました。また、反対に、学内で「定番スタイル」に徹することへの同調圧力が働いていることも発見しました。

 

「定番就活スタイル」への抵抗

これは私が落とされた企業の話です(苦笑)。相当お堅い企業の面接に行きました。待機室では、20人近い学生が面接を待っていました。

 

足下の鞄をちらりとみると、驚くことに、8割以上の女子学生が、「黒くて自立する、A4サイズが入る鞄」をつかっていないのです。

くったりとしたトートバッグ率が非常に高く、中には、マ○ケルコースやコ○チのブランドバッグ(もちろん自立しない)を使っている学生がいました(めちゃくちゃブランド名を誇張している鞄の人もいて驚きました)。ファスナーがないから、ペットボトルなどの中身が出かけているし、丸見えです。また、A4の資料がおらずに入らないのでした。そして、そのような学生は、みんな椅子に鞄を立てかけていました。

 

髪型

就活生向けメディアやスーツメーカーなどは、よく「黒髪で、耳・眉毛を出して、前髪は分ける。ピンで留める。業種によって、髪型を変えよう(基本は、後ろで一つに結ぶ)。」などといいます。

私自身は、前髪が長いので、左右に分けて、へんな丸い形を作って、ぺたんとさせて固めていました(整髪料のせいで、おでこにぶつぶつができまくった)。

 

そしてやはり、面接会場に行って驚いたのは、髪型がめちゃくちゃ自由な人がちらほらいたことでした。もちろん「定番ヘア」をしている人もいました。

しかし、前髪をポンパドールにして、おでこの真ん中でヘアピンを×にして、側面の髪の毛も、×ヘアピンで留めている学生、眉毛が隠れるほど長いシースルーバングの学生などがいました。

 

「定番」から外れることができるなんて、本当に猛者だなぁと羨ましくなりました。ちなみに、そのようなスタイルでいた学生の合否はわかりません。

 

 

「定番就活スタイル」の同調圧力

私が学内の表彰式に参加したときの話です。ドレスコードはありませんでした。

ざっくり100人くらいの学生がいて、半分くらいが女性だったのですが、そのうちのほぼ全員が、

ひっつめ

前髪は形を作って固めるか、オールバック

レギュラーカラーのブラウス(もちろん第一ボタンまで閉めている)

黒スーツ(タイトスカートかパンツ)

パンプス

黒い自立するカバン

だったのです。大変驚きました。

 

私自身は、「面接じゃないしね」と思い、カラーのボウタイブラウスに、例のスーツ、髪型はおしゃれに、カバンは明るい色のもの、パンプスで行きました。ふつうの入学式スタイルです。それなのに、周りからは奇異の目で見られました。ジロジロと舐め回すように見られ、苦痛でした。直接は言われませんでしたが、「こういう真面目な場に就活スタイルじゃないやつがいるのは変」と思われたのでしょう。

 

他に一人だけ、グレーのチェックのスーツ(マーメイドスカート)に、ピンクのボウタイブラウスを着たおしゃれな子がいましたが、私の影にぴたっと隠れて動いてきて謎でした。もしかしたら、ジロジロと見られるのが嫌だから、似たような(?)格好をしている私を盾にしようと思ったのでしょう。

 

 

また、院試の面接のときの話です。

他の受験生は、皆、先ほど挙げたような模範的な就活生スタイルで受験に臨んでいました。私はというと、髪型はデコ・耳だしのハーフアップ、例のスーツにパンプス、黒鞄、スキッパーシャツで臨みました。

私だけがスキッパーシャツやら髪の毛を下ろしていることに違和感(胸元が開いているというだらしなさ?)があったようで、他の受験生にじろじろと見られ、少しいやでした。私だけ「浮いてるな・・・」という感もありました。ちなみに試験官から「スーツじゃなくてもOK。ただし、ジャージは駄目。」と言われていたルールをしっかりと守ったつもりです。

 

 

さらに、他の企業に面接を受けに行ったときの話です。これもまた、相当お堅い企業でした。真夏の面接だったので、企業は「クールビズでOKです」と言っていました。だから、他の就活生は、みんな半袖で着ていました。私は、空調の効いた部屋が寒いと感じていたので、ジャケットを着ていました。すると、私一人だけが黒ジャケットを着ている者ですから、場のなかで浮いてしまって、他の就活生からじろじろと視線を向けられて少し嫌でした。

企業は、気を遣って、暑いだろうからと言うことで「クールビズでOKです」と書いただけであり、「クールビズじゃなければなりません」とは言っていないのです。だから、少し寒さを感じてジャケットを着ている就活生がいるのも当然だと思うのです。

 

 

「定番」を他の人に押しつける人たち

世の中の学生を、大きく2グループに分けることができそうです。

・「定番就活スタイル」は、入学式でもドレスコードのない式典や院試でも貫かなければならないような、大学生の「制服」であると思い、また、「定番」から外れている人に対して嫌悪感を抱く人。

・「定番就活スタイル」は、あくまでも目安であり、そこから多少ははみ出てもいいだろうと思う人。

 

 

もちろん、ブラウスもスーツも1枚しか持っていないという場合もあり得ますので、一概に「定番就活スタイル」に固執しているということはできません。

しかし、だからといって、「定番」から外れている人に対して、明らかに嫌そうな目を向けたり、チラ見を超えてなめ回すようにしてじろじろと視線を浴びせたり、友達同士で指を指してコソコソ嘲笑するのは、少し違うと思います。

私自身、鞄や髪型が自由な人に対しては、驚きはしましたが、「うわ~」という目を向けたり、後ろについてじろじろ見るようなことはしていません。そういう人もいるんだな、というくらいです。

 

 

学生にとっても、面接する企業にとっても、「定番」が存在していることにより、「定番」から外れている人たちに対して嫌悪感や違和感が自動的に形成される可能性が高くなるのです。

ある意味で、「定番」は、「根拠不明・意味不明なルールにきちんと従えるかどうか」を判別する基準にすらなってきてしまっていると思います。

 

 

 

人々を無意識に締め付ける「定番」概念を壊していけるか?

だらだらと私の経験、個人的主観などを述べてしまいました。私が挙げたいポイントは、6つです。

 

・メディアや企業が「定番就活スタイル」を、実際の製品を使うなどして詳細に定義することで、これが固定観念となってしまう。

 

固定観念となることで、就活生においても、面接する企業においても、「定番」に無意識に縛られることになる。

 

・「定番」が世の中の人々にしっかりと植え付けられることにより、「定番」から外れている人たちに対して、自然と嫌悪感や違和感を向けられる可能性が高まる。

 

・世の中には、身体的事情や個人的信条などから、「定番」から外れざるを得ない・外れたい人がいる(たとえば、パンプス問題)

 

・とりわけ身体的事情の場合、「定番」に従うことで、肉体的・精神的苦痛を強いられる可能性がある。

 

・これからは、「定番」概念を解体するべきであること。服装が多様であることに、社会は寛容になるべきであること(服装と業績は結びつかないはずだから)。

 

 

そんなわけで、今度の春のライフイベントに着ていくスーツ、どうしようかめちゃくちゃ悩んでいます。まだまだ「定番就活スタイル」は、私たち世代には強く根付いていますからね。

長時間のイベントで、パンプス着用に耐えられる気がしません・・・。「浮く」の覚悟で、パンツスーツとおじ靴で行こうか、それとも、タイトスカートにおじ靴という禁断の(!?)組み合わせにチャレンジしてみましょうか・・・(何をどうやってもタイトスカートにおじ靴が合う気がしない)。

私の足を守るために、ちっぽけなプライドなんて捨ててしまいましょうか。

もしかしたら、私が新時代のファッションアイコンになれるかもしれません(ない)。

なにより、面接じゃないしね。

【祝・卒論完成】卒論反省会

こんにちは、innu_inuです。

 

先日、ようやく卒業論文を完成させることができました。

 

弊学では、卒論提出か、卒論に代わる単位取得・レポート提出をすれば、卒業できる仕組みになっているので、学部の全員が卒論を書くわけではありません。

私は、とりあえず進路のこともあったので、卒論執筆を選択しました。

 

以下、卒論執筆において大変だったことと反省点を挙げてみたいと思います。

 

計画性がなかったこと

一番の反省点がこれです。

今年の2月頃からテーマ決め、章立てをしていたのですが、実際に書き始めたのは、9月頃でした。

 

じゃあ7ヶ月間何をしていたの?というと、資料調査でした。

授業も大して無かったので、たまに大学に行って、資料をドバッとコピーして、数週間かけて資料を処理(要約、重要箇所のチェック)をする・・・の繰り返しでした。

資料を読んでまとめて、すぐに論文として起こせれば良いのでしょうが、私の場合、形にすることもなく、ただただ頭の中で「そうなんだ!面白い!」と思って完結させてしまったり、「じゃあこの場合はどうなんだろう?」と場合分けして遊んだりしてしまっていました。

 

これが一番痛かったと思います。もちろん、頭の中に構成と論理運びが完成されており、あとはPCに打ち込み、文字化してそれを反映させるだけなので、楽といえば楽なのですが、打ち込む時間が非常にかかりました・・・

ちなみに、後述しますが、締切直前に徹夜をしました・・・苦笑。

 

引用の作法を忘れていたこと

これもまた痛かったです。

私の指導教員は、引用の作法を絶対に教えてくれません。

「論文を読んでいるうちに身につくと思います」の一点張りです。もちろんその通りであるといえるところもあるとは思いますが、引用の技術的な側面(再引用や共著の引用など)は、やはり人から教わらないと厳しい部分もあります。

 

学部のときに一度だけ、長めの論文を書いたことがあったので、そのときに多少は引用の作法を身につけてはいたのですが、いざ卒論を書いてみると、「これで合っているのか?」という疑問が生まれたり、「どうだったっけ?」とすっかり忘れていたりしていて、結局は他大学が公開している「引用ルール」を頼らざるを得なくなりました。

 

「引用ルール」をネットで広く一般公開してくださる大学には、心から感謝しています。

 

指導教員とコンタクトがとれなかったこと

私は、先述の通り、「文章」を書き始めるまでが遅い人間です。書くことよりも、頭の中であれやこれや遊ばせる方が好きかもしれません(アウトプットにこそ意味があるというのに・・・と、自分でも自分に呆れています)。

 

だからこそ、書き始める前に、論理的にどうなんだろう?と悩むことや、疑問点がたくさん生まれます。そういった「わからないこと」を、指導教員にききたかったのですが、メールを何度も無視されたり、対面での指導をすっぽかされたりして、ほぼ「放置プレイ」でした。

「卒論なんて、人に見せるもんじゃないから適当で良いんだよ」とか、「あなたは、○○(一番簡単な分析)でもしていればいいんだよ」などと言われ、なかなか相手にしてもらえず・・・さすがに、6月~9月くらいは、心が折れましたね・・・。あまり気張らないよう、気を遣ってくださっているのかもしれませんが・・・。

 

指導教員との関係性は、論文の質だけでなく、論文執筆に必要不可欠なモチベーションにも影響を及ぼすので、できるだけ良好な方が良いと思いました。

 

Wordをいまいち使いこなせていなかったこと

脚注とか文字数・行数の指定といった初歩的なことはできるのですが、相互参照やヘッダーとフッターの設定がいまいち分からず、すごく困りました。

 

とりわけ、今年はPDFファイルで提出とのことだったので、いつものようなごまかし(表紙(+目次)と本文を、それぞれ別のファイルで作成すること)が効かず、表紙(+目次)と本文とを1ファイルの中でしっかりと区別し、ページ数を途中からふるようにしなければなりませんでした。その設定で、一時間くらい悪戦苦闘しました。

 

ちなみに、恥ずかしながら、脚注は手入力で、相互参照もできないので、前掲注カッコないの数字も手入力でした……これだけで、何時間もかかりました…。

 

テーマの発展性がなかったこと

これは、最悪の結末でした。

卒論テーマ決定が2月頃、そしてその時点で、そのテーマを大学院でも研究しようと決めていました。しかし、10月頃になって突然、指導教員が「そのテーマに発展性がない」と言い出したのです。これはまさに寝耳に水、とりあえず卒論に関してはよしとしても、大学院でのテーマの変更は必須となりました。

 

卒論執筆をした理由は、修論にそれを組み込む、もしくは、何らかの形で発表し、それを前提とした内容の修論を書くためでした。さらに、資料収集も、大学院でも使えるから、という思いから、たくさん収集したのでした。

どうやっても卒論テーマは、修論テーマに活かすことができなそうですし、資料もそのテーマに特化したものがほとんどですから、今年1年の努力が、全部ぱぁになってしまいました・・・。

 

まぁ、また気持ち新たに出発できると思い直せばヨシでしょうか。

 

 

資料管理をおざなりにしたこと

とりあえず、コピーした資料は、2穴ファイルにどんどん綴じていっていました。しかし、資料の数が一定数を超えたときに、「あれはどこ?」「これはなに?」という混乱状態に陥りました。ミスポイントは2つです。

 

まず、2穴ファイルは使いづらく、論文管理には向かないと気づけなかったことです。厚みもすごくなりますし、下の方に綴じてしまった論文を取り出すには相当時間がかかります。結局、資料の穴に留め具(プラスチックの結束バンドみたいなやつ)を通すのをやめ、ただ挟むだけになりました。すると今度は、持ち運ぶたびにバサーと中身が落ちたり、紙の端っこが折れまくったりしました。さらには、留め具(はさむやつ)を落としてなくしたりもしました。結局のところ、入れるだけファイルに落ち着きました。

 

 

次に、コピーした資料が何であるかをきちんと記載しなかったことです。よく、資料をコピーする際には―とりわけ書籍の場合には―奥付もコピーしましょうというように言われますが、コピー代がもったいないからとケチり、それをしてきませんでした。その代わりに、それぞれコピーした資料の端っこに判別可能なレベルで書籍名や著者名を書いていました(「判別メモ」)。

 

その作業をさらに、図書館でコピーした直後に本を見ながらすればいいものを、「時間がないし、めんどくさいから」とかいって、コピーしてから一週間くらいたった後に家で行っていました。一週間くらいであれば、文体や内容、レイアウトを見て、「ああこれは○○先生の本だ」と分かって、8割の資料を、何の論文か判別できるのですが、2割はダメです。結局、必死に図書館で該当部分を探したり、章の名前から書籍を探し当てたりして、多くは判別できましたが、残念ながら、何の書籍のコピーか分からず放置した資料が、3つほどでてしまいました。

これからは、きちんと図書館で、コピーした直後に、書籍を確認しながらスグに「判別メモ」をつける必要があると肝に銘じました。

 

そもそも、論文を紙媒体で読むこと自体、「やばい」のでしょう。

他の学生さんはみんな、論文をスキャンしてPDF化して取り込み、macipadをサッと開いて、それらをぱぱっと読んで、appleペンシルでメモを書き込んでいって、なんか凄い論文管理ソフトで論文データを管理しているようです。

 

 

私は、せっせと論文をコピーして、ファイルに入れ、記憶を頼りに全て管理して……という何とも原始的な手法をとっていました。

 

そもそも私は、タブレットも持ち運びノートPCも持っていません……だから、学内で論文をスキャンしてPDF化する作業ができないのです(じゃあ買えば?という話にはなるのですが、金銭的にきついのと、学内WiFiに自分のPCを入れるのが死んでも嫌だという理由があります)。

また、飛蚊症が酷いので、白いPC画面を見続けるのが非常に辛いです。こういった理由から、「やばい」とは分かりつつも、紙媒体で論文管理をしています。

あの日本政府ですらデジタル化を進めようとしているというのに、20代の私が非デジタル化(アナログ化)した手法を好んでいるとは、なんとも恥ずかしい話ですが・・・やっぱり、目の衰えには抗えません。

 

自分なりの「論文の書き方」が身につくのが遅かったこと

「論文の書き方」をレクチャーする本は、世の中に多く出回っていますし、私も大学1年の夏にそれ系の本を購入し、勉強しました。とりあえず、論文の構成とか、論証の仕方とか、引用の作法といった「論文そのものの書き方」は身についた(?)ものの、資料のなかで取り上げたい部分を、どうやって自分の主張の中に組み込んでいくか、それも(自分にとっては)膨大な数の資料がある中で・・・といった問題を解決できずにいました。すなわち、資料を読んで、取り上げたい部分をピックアップしたり、要約したりする作業(ここでは、まだ情報が資料に留まっている状態)と、論文を書く作業とが、断絶していたのです。読みながら書く、エクセルに情報をまとめて引っ張り出しながら書くといった器用さが、私にはないのです。

 

結局、5ヶ月くらい考えた末に、自分なりの、人から敬遠されそうなやり方(それも自分にとってはめちゃくちゃ書きやすい方法)を発案しました。このとき、既に卒論締切りまで2週間でした。もっと早く思いついていれば・・・と悔やみましたが、もし卒論を書いていなかったら、修論直前で同じ悩みにぶち当たっていただろうから、卒論を書いて良かったとも思いました。

 

 

【卒論完成のために12時間ぶっつづけで論文執筆をした話】

卒論締切りは、X月Y日Z時で、Z時直前は回線が混み合うから、早めに出してね、ということでした。

2万字未満くらいで、まだ半分くらいの完成度合いの卒論を本気で書き始めたのが、当日深夜2時。

ただただ、執筆し・・・朝になっていました。

朝7時。

家族が起きてきて、「まだやってるの?」と。

そして、ストーブも点けず、ひんやりとした部屋の中で黙々と作業していたことを言われ、暖房をつけてぬくぬくモード。

朝8時。朝ドラやってるらしい・・・。

あと30分もやれば終わるな・・・・と思いながら、10時。

ここで終わりにもできるけど、もうちょっと書かないと・・・と思い、11時。

あと少し引用したらおしまい・・・と思い、12時になっていました。

 

ちなみに、執筆開始から10時間、飲まず食わずで、横になったのは5分だけ、ただぼけっとする休憩時間を設けることもなく、ずっと椅子に座ったまま作業を続けていました(ちなみに、普通のダイニングチェアに座っていたので、その後、持病である座骨神経痛が悪化しました)。

 

12時半頃完成、しかし、ページ数の挿入に苦労して、13時半。

提出完了したのが、14時頃。

 

結局、12時間飲まず食わずで、11時間55分椅子に座って連続して作業を続けていたことになります。何の自慢でもないのですが、個人的には凄い記録だなあと思っています笑

 

「もう少しやろう」という気持ちが強く、なかなか見切りをつけられませんでした。良さそうに言うのであれば、ミスチルの『終わりなき旅』みたいな感じでしょうか。

 

ゾーン感覚に入っていたのでしょうか?、腰の痛みとか目の痛み、喉の渇きとか空腹といった感覚を一切感じませんでしたし、雑念は一切わきませんでした。また、苦痛など一切なく、それよりも、自分の脳内にとどまっていた思考を自分の手で言語化し、「かたち」をもたせていくことに対する快感を覚えていたような気がします

時間がコマ送りのように過ぎていく、あの感覚を一生忘れることはないと思います。焦ってはいましたが、実は、気持ちよさを感じていました。

 

提出が終わった後は、集中力が切れたためか、頭が殴られたように痛く、ろくに歩けず、這いながら部屋を移動しました。視界は緑色で、宇宙人から変な液体でも掛けられたかな?とすら思いました。

昼ご飯はあるけど、食べる気力がなかったので、ゼミの時間まで仮眠しました。

 

せっかく最後のゼミだったのに、まともに準備をせず、他のメンバーに申し訳ない気持ちになりました。やっぱり、卒論執筆は計画的に行わなければなりませんね。

 

~~~

 

以上が、卒論完成にあたり、私が反省したこと・考えたことです。

 

これから卒論を執筆される学生さんのお役に立てたら幸いです。

若者にとって「クリスマス」は、本当にオワコンなのか?

こんにちは、innu_inuです。

 

先日は、クリスマスでしたね。我が家では、10年ぶりくらいにクリスマスツリーを出して、クリスマスケーキやチキンを作り、ささやかなパーティーをして楽しみました。

 

私はいわゆる「若者」世代ですが、クリスマスが大好きです。

11月下旬から12月25日にかけて高まっていく高揚感とか、街のキラキラ感とか、ぬくぬく感とか、静けさの中の光とか、サンタクロースの優しさとか、人々の浮き足立つ感じとか、クリスマスソングとか、とにかく好きです。

 

一応申し上げておきますと、私はクリスチャンではありません。

「クリスチャンでもないのに・・・笑」と言われてしまいそうですね。私も、中高生のときは、「クリスマスなんてクソ食らえ!」と思っていました。なんか特別な日らしいけど、別に普通に過ごしてやる、そんな抵抗心があったように思います。

転機は、大学1年の冬でした。第二外国語の国Xについて、学ぶ機会が多くなったがゆえに、Xを好きになったのです。そして、Xの実質的な国教は、キリスト教なので、クリスマスも本格的です。私は、Xのクリスマスに興味をもったので、徹底的にXのクリスマスグッズ・食べ物を探したり、日本におけるX的なイベントを探して行ったりしました。

そうこうしているうちに、私が「Xかぶれ」の人間になったからこそ、クリスマス大好きマンになってしまったのです。

 

日本におけるクリスマスは、もはや世俗化していて、クリスマスを楽しむ人々が全員、キリストの降誕を祝っている(もしくは、キリストを礼拝している)わけではないと思います。

しかし、西暦を使って生きている以上、キリストという存在と無関係ではないと思います。そんなわけで、クリスチャンでもない私は、西暦に思いを馳せながら、クリスマス文化を創り上げ、維持してきたクリスチャンの方々を尊敬しつつ、クリスマスを過ごしています。もちろん、クリスマスという「特別感」も楽しんでいます。

 

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昨日、こんな記事を見つけて愕然としました。

toyokeizai.net

もう1つ象徴的だったのは、「パーティーも『クリスマスだからやろう』とは限らなくて、忘年会とか、誰かのお祝いでやればいいと思っています。だって無理にケーキ、チキン、プレゼントを用意しなくてもいいから気楽」「クリスマスって決まっているものが多くて、お金がかかりますよね。ハロウィンのように自分らしさを自由に出して楽しめる感じもないし」という大学生グループの声。

確かにクリスマスは、「お金をかけて決まった形式のイベントを楽しむ」というニュアンスが強く、ハロウィンと比べると自由度は少ないのでしょう。また、同じ年末で言えば、カウントダウンのほうがお金はかからず、自分らしさを自由に出しながら、集まって盛り上がれるイベントに見えます。

さらに1つ加えるなら、かつてホールケーキとチキンにはクリスマス特有の特別感がありましたが、現在ではそれほどでもなくなりました。言い方を換えると、「ケーキは『誕生日とクリスマスしか食べられない』という時代ではなくなった」ということ。ひいては、クリスマスそのものも、ハロウィンなど別の魅力的なイベントが増えたことで特別感が薄れてしまったのでしょう。

「大学生グループの声」って・・・私と同世代じゃないですか・・・。

確かにクリスマスは、ハロウィンに比べれば、ある種伝統的な(?)「型」があって(そもそも誰が作り上げた「型」なのか・・・?)、それに従って粛々とやる、という感が強いと思います。しかし、だからといって、「自分らしさを自由に出して楽しめ」ない、ということもないと思うんですけどね・・・。

たとえ「型」に従ってクリスマスを過ごすとしても、別にそこに「自由さ」がないわけではないと思います。別に”アレンジしたから罰金!”となることもないのですから。

クリスマスツリーを飾るにしても、随所に自分らしいこだわりを出すことはできますし、クリスマスケーキじゃなくてもお寿司ケーキでもいいわけです。既存の「型」に対して、どこに自分らしさを出すポイントを見つけるか、工夫を凝らしたお気に入りのポイントを作るのか、というのも、また楽しいと思うのですけれどもね。

ちなみに、クリスマスプレゼントの準備は、金銭的負担が大きいので、全面的に賛成するわけではありません(苦笑)。

 

 

逆に私からすれば、同世代がなぜハロウィンでめちゃくちゃ盛り上がっているのかが意味不明なんです。大学のゼミ生が、インスタで、『今日俺』みたいなセーラー服を着て仮装したとか、別の子は、少しエロい悪魔をやったとか、公開していましたが、本来のハロウィンの趣旨と、その仮装の関連性って、どこにあるのかがよく分かりません・・・ごめんなさい(disる気は、全くございません)。その仮装をするだけで、クリスマスの準備と同じくらいお金がかかりそうですし・・・大変そうです。

そもそもハロウィンの趣旨ってどうなんだろう?と思い、調べてみたところ、

元々ハロウィンは、10月31日に行われる、アイルランドに伝わる「サーウィン」という古代ケルト人のお祭りでした。
ケルト人にとって10月31日は一年の終わりにあたります。この日は先祖の霊がこの世に戻ってくるとされ、この世に戻ってくる先祖の霊を供養し、現世の悪霊を追い出すための行事だったと言われています。日本のお盆に近いイメージかもしれません。

(中略)

悪霊たちから身を守ろうと悪魔や魔女の仲間のふりをするために仮装したのが始まりと言われています。

とのことでした。

tg-uchi.jp

この趣旨に従ってみれば、やはりハロウィンもそんなに自由度の高いイベントではないような気がします。クリスマスと比較するとしたら、クリスマスはバブル期から培われた「謎の伝統」があるのに対し、ハロウィンは最近まではそんなに盛り上がらないイベントだったために、特に決まった「謎の伝統」がない、ということくらいでしょうか。すなわち、これまでの、イベントとしての注目度の高さの違いによる、ということです。注目度が高ければ、人々がそこに集まるわけで(さらにマスコミが加勢して)、その人々によって、ある程度ルールが作られますからね。

また、ハロウィンは、誰もが自分じゃない自分になれるという「非日常感」があるのに対し、クリスマスは別にそういうわけではない、という違いがあるのでしょう。

とはいえ、「魅力度」に関して、若者世代では、ハロウィンのイベントとしての魅力度が、クリスマスのそれを超えた、ということなのでしょうが、なぜそうなっているのかが、同世代のくせに分からなくて焦っています。

 

 

また、先ほどの「今年のクリスマスが全然盛り上がらない納得の訳」より、

社会人グループから聞いた言葉で最も驚かされたのは、「クリスマスがどうとかインスタにアップするのは恥ずかしい」「ケーキやツリーをSNSにアップするのは、おじさん、おばさんのすること」という声。

つまり、クリスマスを古いものの象徴として見ていて「逆トレンドのようになっている」ということでしょう。これは「クリスマスはお金をかけるイベント(バブル期っぽい)」「クリスマスは恋人同士のイベント(恋愛依存っぽい)」というイメージが、コスパや仲間を重視する若者世代にフィットしないからです。

まじか~~~~クリスマスって逆トレンドなのか~~~~・・・衝撃です。

古き良きを楽しめば良いじゃないか・・・と、懐古主義的な私は思うんですけどね・・・。逆トレンドをリファインする楽しさってないですかね?

確かに、私も、「クリスマスだから高いお金をかける」ということに合理性は見いだせませんし、「恋人同士で過ごさないと恥」みたいな概念にも同意できません。しかし、全面的に「古い」ものとみなすのは、謎です。

もちろん、コスパ・仲間重視という視点には全面賛成です。

 

 

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2021年は、クリスマストレンドの境目だったような気がします。

2020年は、コロナ禍ではじめてのクリスマスということもあって、2019年以前のクリスマストレンドを引き継いでいたような気がします。すなわち、これまでと同様に、おうちでも豪華に、といった意識があったような気がします。去年、25日の夜にスーパーに行ってみたら、苺はほぼ売り切れ、クリスマスケーキの飾りも売り切れ、チキン類は多少あった、という感じでした。

今年は、夜でも、スーパーには苺がたくさん売っているし、ケーキの土台なんて余るほど売っていて、七面鳥は廃棄にならないのか心配になるほど売れ残っていました。クリスマスケーキ用の飾りもたくさん売っていました。特設会場のホールケーキも、10個以上並んでいました。ついでにいえば、コーヒーショップのクリスマスコーナーは、20日の時点でほぼなくなっていましたし・・・2021年のクリスマスは、なんだか物寂しい印象です。

 

ちなみに、クリスマス=恋人と過ごす特別な日、というイメージは、先ほどの記事は「古い」とされていましたが、実はつい最近まで(2019年くらいまで)根強く存在していたような気がします。というのも、私が高校生のときは、クリスマスは恋愛一色という感じで、高校では「恋人がいなくたって良いんだ!」「クリぼっち万歳!」「クリスマスは普通の平日じゃあ!」と声高に叫ぶ人々が多数いました。はやりのクリスマスソングもたくさん作られた年でもありました。

ちょっとした小話ですが、大学1年のとき、語学のクラスで、先生が「一定の点数を下回る人は、12月24日に補講をします」と言ったときに、補講対象者が「え~~~!!クリスマスは大学行きたくない!だってクリスマスだもん!」と主張し、かたくなに出席を拒んでいたという話があります。この時点では、少なくともクリスマス=特別な日、という意識が大学生にもあったんだと思います。

 

トレンドの変化を身を以て体感しているなと思います。

 

 

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私が主張したいのは、

・クリスマスは古くない!古いとしても、古き良きを楽しめば良い!

・ハロウィンも良いけど、クリスマスも良い!クリスマスはハロウィンと同じくらい魅力的なイベントである!

・クリスマスも自由に楽しめる余地がある!

ということでしょうか。

 

もしかしたら、将来的に「クリスマス」というイベントは消えゆくのかもしれません・・・しかし、下火になったところで、またそのときの若者が「平成レトロ」として楽しみだすのかもしれませんね。また、今後、日本の景気が盛り上がってきたら、バブル期のような高級志向が戻ってくるのかもしれません。

 

現段階では、日本のクリスマスはオワコンではないと思います。

ただ、それはかつてが「お金をかけすぎる」など過剰だっただけで、今は適正な形になっただけなのかもしれません。たとえば、コンビニやスーパーには、シングルもクリスマス気分を楽しめるように小さなケーキやチキンが買えるようになるなど、全体の経済効果は下がったかもしれませんが、さまざまな人々に対応したイベントになったような気もします。

(今年のクリスマスが全然盛り上がらない納得の訳 より)

以上の指摘の通りだと思います。

(ちなみに、CDTVとMステの「クリスマススペシャル」がなくなったときに、クリスマスは本当のオワコンを迎えるのだと思います・・・。)

 

 

固定観念に縛られず、クリスマスというイベントを再考し、自分の中でどのようなイベントとして位置づけるか―これを考えるだけでも楽しいはずです。もしかしたら、クリスマスは子供じみたイベントに捉えられる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、その「子供じみたイベント」に対する”意識”は、子供の頃と大人になった今とでは違うはずです。そのような”意識”の側面から、クリスマスを再解釈し、今の自分に合った楽しみ方をする、というのはいかがでしょうか。

世の中、案外、「物の見た目」だけではないと思います!

 

来年のクリスマスこそ、盛り上がりを期待します!

 

【判断基準】資格試験の自己採点をするべきか?

こんにちは。innu_inuです。

 

先日私は、とある資格試験を受験してきました。

本当に久しぶりの会場型受験だったので、色々と困惑したことも多かったです・・・が、なんとかやりきりました。

とりわけ辛かったのは、試験時間中にお腹を壊したことですかね・・・教室中にゴロゴロと音が響いていて、大変申し訳なかったです。

 

試験を解いた後は、基本的にハイになっているので、自己採しようかな・・・?とウジウジすることはないのですが、1日くらい経つと、「ああやっぱ自己採しなきゃ!でも現実を知りたくない!」という葛藤が始まります。

 

結局、今回は、きちんと自己採点をしました。

したら、気持ちがスッキリすると思ったからです。合否の予想も立ちやすくなりますし、なにより、今後の身の振り方を計画しやすくなると思ったからです。

 

ところが、そうはいきませんでした。

 

というのも、当該試験には記述問題がありまして、その部分の採点については、誰も予想することができません。すると当然に、記述抜きで、まずは自己採点をするしかありません。記述抜きで、合格基準を超えていれば、気持ち晴れやかに今後を生きることができるのですが・・・

 

私の場合、記述抜きの点数では、合格できませんでした。しかし、記述の点数次第では、十分に合格可能性がある点数でして、さらに言えば、自分の記述問題の解答が、模範解答とほぼ同じか、すこし言い回しが違っていても意味は同じ、という絶妙に微妙なものなのです。

 

大きく外していれば、「ああもう運任せじゃん☆」と言うくらいに割り切れるのですが、絶妙に微妙なので、これを外しているとなると、結構ショックですね・・・笑

 

結果が出るまで相当長い時間があるので、その間、いかに当該試験の記憶をなくすことができるか、がメンタルヘルスのために重要になってくると思います。

 

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やはり、自己採点というものは、安易にすべきでは無いと思います。

このように、採点に不確定要素を残している試験では、なおさらです。

自己採点が、「事故祭典」と呼ばれているように、相当にメンタルを破壊する行為であるということは、事前に覚悟しておいた方が良いと思います。

 

 

そこで、私なりにこれまでの様々な試験経験を踏まえて、自己採点をすべきもの、すべきでないものの基準を考えてみました。

 

【自己採点をすべき場合】

①択一式のみの試験で、マルバツをつけるだけで合否が判明する試験。

②何日かにわたる試験における、1日目の試験。

③次の資格試験の勉強をするかしないか決めかねているとき。

②のような試験においては、1日目の試験ででたところが、2日目の試験にもでる可能性がありますので、復習を兼ねて、自己採点をすると良いのではないかと思います。

 

【自己採点をすべきでない場合】

①択一式+記述式の試験。

②共通テストの1日目の試験(上記②の例外)。

③論述式の試験

 

あくまでも、個人的な経験に基づく判断基準ではありますが、もし、本気で自己採点をすべきかどうか迷っていらっしゃる方の参考になれば幸いです。

 

コピー用紙・ノート・ルーズリーフ、どれを使うか?

ノートを使うべきか、ルーズリーフを使うべきか、コピー用紙を使うべきか、かれこれ何十年も悩んでいます。

本記事では、これら三種類の「紙」と私との思い出、そして私が考える「紙」の性格を記したいと思います。

 

 

《コピー用紙と私》

私は幼少期~中学時代くらいまでは、とにかく絵を描くことが好きだったので、A4のコピー用紙を常に携帯していました。A4コピー用紙と私は、サッカー少年が「ボールが友達」と言っているくらい"仲良し"だったと思います。

 

その後はさすがに絵を描く頻度も低くなってきたので、コピー用紙を使うこともほとんど無くなりました。高校時代は、ほとんどコピー用紙を使わなかったように思います。大学でようやく、資料をコピーしたり、レポートの構想を練ったりするときくらいに使っていた感じです。

 

ただし最近は、このコロナ禍で、在宅ワークの要請が高まったこともあって、A4コピー用紙の使用頻度はぐんと上がりました。データで送られてきたPDFファイルを家でひたすらコピーしています。500枚のコピー用紙パックが、二ヶ月で無くなったことがありました。

そんな中で、コピー用紙ならではの特徴に気づけたと思います。

 

・コピー用紙1枚と「対面する」ことは、精神的負担がゼロである。

幼少期からの「相棒」だからかもしれませんが、なぜだかコピー用紙を目の前にすることの方が、ノートを目の前にすることよりも気持ちが楽なのです。ノートを目の前にすると、『ああこれがこの1冊の1ページとして残るんだな・・・じゃあちゃんと書かなきゃ・・・』みたいな気負いが生まれ、書くことを躊躇してしまうのに対して、コピー用紙一枚であれば、『よし書こう』とすぐに自分の思考を紙上に表現しようとできるのです。

別にコピー用紙を、ただの紙っぺらとして馬鹿にしているわけではありません。机の上に載せたときの、平坦さ・水平さ・無防備・孤独感、さらには紙と机との(段差的な)境界線の無さが、たまらなく良いと言いたいのです。

書ける範囲が紙全体に広がっているという、ある種の「心の広さ」が、私の思考や意識をやさしく包み込んでくれる感じがします。

 

・気軽に接してくれる分、アフターケアが重要になる。

先述の通り、コピー用紙は、とても心の広い存在です。紙一枚という身軽さが魅力的なのです。しかし、身軽だからこそ、「アフターケア」を怠ると、大変なことになってしまいます。というのは、きちんとファイリングするなりデータ化するなりしないと、紛失してしまうリスクが非常に大きいということです。私はこれまで、何度もアフターケアを怠ってしまったせいで、大事な思考過程をあちこちに落としてきてしまいました。

 

ノートとは違って、1冊見つかればページ数分の紙が見つかるということはありません。コピー用紙は、集団生活はあまり好まないようですし、あちこちふわっといってしまいがちです。

ですから、二穴パンチで穴を開けてファイリング、ポケットファイルに収納、封筒で管理、データ化などといった手段で、大事なコピー用紙を管理し、住処を明確にすることが大切であると思います。

 

 

《ノートと私》

絵を描くことが好きだった私は、漫画やイラストを自由帳に描いていました。自由帳にどんどん絵を描き、一冊使い終わると、謎の達成感を得て、またさらに新しい自由帳を使い出す・・・ということの繰り返しでした。

学校(高校まで)の授業では、ノート(中高では、ロジカルノートを愛用していました)を使っていました。大学ではルーズリーフを講義ノートとしていたため、ノートを使う機会といえば、読んだ本の感想を書いたり、論文の要旨をまとめたりすることくらいしかありませんでした。

 

そんなわけで、私が考えるノートの特徴は以下の通りです。

・時系列順に思考をまとめられるので、思考の検索が簡単である。

ノートの特性である「時系列性」が、後から『あれ何だったっけな』と思い出そうとするときに、とても役立ちます。実際に論文を書いているときに、『この論文を書き始めた頃に読んだ論文のメモどこかな』と思い、探してみたら、一発でそれを見つけることができました。

 

・真面目で規則正しい時系列性が、書くことをためらわせる。

先述の通り、順番にノートのページに書いていくからこそ、

大きくミスったことを書くと、後から読み返したときに恥ずかしくなる

違う内容のことを1冊にまとめようとすると、なんかモヤッとする

ページを入れ替えられないので、戸惑う

のです。ノートは規則正しく、真面目で、私たちが気軽に描いた「こと」をも、ガッチリ掴んで離さないからこそ、その辺の融通がきかないのです。その分、後から見返すときの検索性の高さは抜群なわけではありますが・・・。そんな、どんな私をも受入れ、溺愛してくれるノートだからこそ、ノートに何かを書き込むときは、私も誠実であらねばならないと思っています。

 

 

《ルーズリーフと私》

ルーズリーフとの出会いは、中学1年生のときだったと思います。テスト勉強を、あえてルーズリーフでやっていました。普段はノートしか使ってはいけないからこそ、ある意味良い気分転換になったと思います。

そして、大学の講義ノートに、方眼のルーズリーフを愛用していました(語学の授業では、罫線のルーズリーフを使っていました)。コピー用紙やノートに比べて、ルーズリーフを使う機会はあまりなかったと思います。

 

・コピー用紙とほぼ同じだが、「穴」が気持ちを惑わせる。

ルーズリーフの特徴は、この1点に尽きると思います。はっきり言って、コピー用紙とルーズリーフとは、そんなに違いは無いと思います。罫線・方眼ありといったバリエーションがあるか否か、ルーズリーフ穴があるかどうかくらいだと思います。

 

この「ルーズリーフ穴」が、私にとってはやっかいなのです。カリカリ考えをまとめていくとき、穴にボールぺン先が落ちてしまうことがあります。穴にボールペンの先が落ちたときに、ハッと夢から醒めたような気持ちになり、『あれ何を書けば良いんだ?』となにかよくわからなくなってしまうのです。

また、逆にルーズリーフの穴にペン先が落ちないように気をつけて書こうとすると、「穴」の存在がとにかく気になって、「書くこと」に集中できないのです。

というわけで、「穴」のない、完全無欠なコピー用紙こそが、抱擁力ナンバーワンの「紙」であると思うのです。

 

もちろん無地であるコピー用紙に比べて、罫線・方眼などが選べるルーズリーフの方が、色んな場面で活躍できると思いますし、なにより紙をファイルに綴じて管理する人にとっては、ルーズリーフ穴が事前に開いているという点でとても便利なのだと思います。

ただ、私にとっては、ルーズリーフの穴は、集中力の落とし穴になってしまうのです。したがって、既に書き終わったコピー用紙に後から穴を開ける方が、自分には合っていると思います。もちろん、書いた部分が「穴」として抜け落ちてしまうということが多発しますが・・・苦笑。パンチを開けて抜け落ちた記述部分が、記憶の「穴」となり、記憶からすっぽ抜けてしまうのです・・・しかし、それでもあえて後から穴を開けて使いたいと思います。