犬雑記帳

どこにでもいる文系修士課程2年生の日常と感情の記録

〔当たってるようで当たってない?〕性格診断(特にMBTIもどき)の結果に対する考え方

こんにちは。

ネット上にあふれているMBTI診断(のようなもの)で、大抵、INTJINFPと診断されるinnu_inuです。

 

 

最近は、性格診断というものに非常に興味があります。

というのも、そろそろ就活をしなければならず、どのような分野・業界の仕事ならば私にもできるのか・・・ということを毎日悶々と考えているからです。

(なお、私は、現在修士課程2年生で、博士課程への進学予定はありません。現状、来年の4月からは、本物のニート生活が待っています、やばい。とはいえ、今就活することは、(指導教員の方針&存在&脅し&アカハラによって)不可能なのです。(できなくはないけど、バレないようにやる必要がある。もし就活によって修論執筆が遅れたり、書けなかったりすることがあろうことなら・・・そこは、地獄になるでしょうし、私は、この世にいないでしょう。。)

 

 

指導教員選びに失敗した私は、就職こそ、失敗したくありません。そこで、性格診断なるツールを使って、できる限りミスマッチをなくしたいと思っています。

 

 

 

そして、個人的に気になるのが、MBTI診断(もどき)です。色んなサイトで、この診断(もどき)をやってみたのですが、その結果は、INTJとでる場合と、INFPとでる場合があります。この2つの性格は、全く異なるものであるようです。両者の性格の特徴をみていると、どちらにも「当てはまる」と思うものと、「絶対に当てはまらない」と思うものが混在しているのです。

当たっているようで、当たっていない、という感じでしょうか。

ちなみに、使ってみた診断は、コチラです。

www.16personalities.com

※16Personalitiesは、本来のMBTI診断とはまるっきり異なるものであるそうです。ご利用になる際は、ご注意下さい。詳しくは、こちらの記事をご覧下さい。

www.j-cast.com

 

yuru-mbti.com

www.vivi.tv

16test.uranaino.net

mgram.me

 

 

 

 

 

この比較表が個人的にはわかりやすいなと思いました。

character-seikaku.memo.wiki

 

特に注目したいのが、INTJは、「強者に異議を唱えて挑む」とあるところ、INFPは、「弱者を励まして勇気づける」となっているところです。

この点、私は、両方やります・・・。小学生の頃からよく言われていたのが、「上の者に噛みつき、下の者(年齢などが下の者)に優しい」ということです。

大人になってからは、言うべき時はガツンと言うけれども(戦うべき時は戦う)、基本的には、そういう気持ちをグッと我慢して、おとなしくふるまうようになりました。

 

 

こういったことから私が考えたことは、以下の3点です。月並みな分析ですが、とりあえず書き起こしておきます。

まず、16タイプもあるとはいえ、はっきりと「あなたはこうである」と指針的に示せるような性格診断をすることは無理なのではないか、ということです。

人間の性格は、複合的で、複雑なものであると思います。きついことを言うからといって、やさしくないわけではありませんし、優しいからといって、その優しさが真性のものであるとも限りません。見方によっていろいろ捉えることができるほどに、人の性格は、複雑なものだと思います。

 

 

つぎに、人の性格というのは、その時々・状況で変わるものであるということです。

普段は物を言わないような、おっとりとした人でも、何かのきっかけで、激しく糾弾するような人になるかもしれません。現に、私の高校時代の同級生に、普段は、四六時中他人のことを批判して、自分のことを持ち上げるような言動をしていたのに、ある数日間だけ、それなりに優しい、攻撃性のないような振る舞いをしていた人がいました。これをサイコパスというのかどうかは分かりませんが、なんらかの要因(環境?出来事?)で、本人の性格のどの側面が強くでるかが変わってくるということがあると思います。

 

 

さらに、人の性格というのは、「社会性」によって他者と協調できるように修整されていくのではないかということです。

学校での集団生活や、アルバイトなどの「社会」における経験をとおして、『これは、この場面では言ってはいけないな』ということや『この場面では、こういう振る舞いが必要だ』ということが分かるということがあると思います。私自身、特にそのようなことを感じます(現に私に「社会性」があるか否かは、いったん置いておきます)。私も、いろいろな経験を経て、言いにくいことをいわなければならないときに、総合的な判断、例えば、相手との関係性(今後も継続していかなければならないのか?)や、その内容を発言する必要性の有無(今言わないといけないのか?それとも、相手が改善するのを待っていられるか?)、自分の状態の客観的評価(それを言わないことで、自分が悪い方向へと変わっていってしまうのか?)、より相手の感情を害さないような言い方があるのか、などを考慮するようにしています。

 

 

私が出した診断結果に関連して言えば、INTJという結果は、私のもともとの性格(修正前)で、INFPという結果は、他者との協調を考慮して修正された、社会における性格であるといえるでしょう。

したがって、2パターンの診断結果がでるのも、その結果に至るまでの質問内容に、それが社会性が問われるようなものであるか(他者に対する対応など)、プライベート空間における自身の振る舞いが問われるようなものであるかといった違いがあるからであると思います。

 

 

 

そういうわけで、性格診断というのは、当たっているようで当たっていないのではないか、という私の意見でした。

私の場合、INTJとも言い切れないし、INFPとも言い切れないと思います。時と場合によって、対応も変わってくるものですからね~。

ま、この記事を読むと、自分はINTJ寄りなのではないかとすら思えてきます笑

www.everythingofneet.com

 

 

この種の性格診断は、ズバリあなたはこの性格です!と言い切れないにしても、自分の性格の特徴をピックアップするのには、適しているのかもしれませんし、異なる結果のなかで共通する項目を取り上げて、自己分析の材料とするのにも役立つかもしれません。

現に、私がこれまで『この職業に就くかぁ』とぼんやり考えていた職業が、どちらの性格であっても不向きだ、ということが判明しましたねぇ・・・(個人的にも、なんとなく気乗りしなかった)。

 

指導教員という「人生の反面教師」ー相手を尊重するとは?ー

こんにちは。

私は、今年の春から修士課程の2年生になりました。

 

学部の2年生の頃から(大学院へは内部進学)、現在の指導教員からアカハラを受けており、修士1年になってからは、さらにそれがひどくなり、ついには、指導教員と連絡を絶つようになりました。まぁ、そもそも指導教員にメールを送ったところで、返信は基本的に来ないし、1対1で指導をしてもらえたところで、人格を蹂躙するような暴言を吐かれるだけなので・・・。

 

 

ネガティブな話題はさておき、この記事で書きたいことは、

私の指導教員が、あまりにもクソ過ぎて、もはや「人生の反面教師」にすらなりつつある

ということです。

 

 

 

 

1. 自分が”思う”「常識」「ふつう」でものごとを評価するな!

私の研究スタイルについて、指導教員は、揚げ足をとってただひたすらに文句を言ってくるのですが、その際に必ず言ってくるのが、「○○の常識では~ありえない」「普通は~絶対ない」といったものです。すなわち、指導教員は、指導教員のなかの「常識」をふりかざして、相手の言動を評価してくるのです。

その「常識」とやらが、本当に常識なのであれば、その指摘を受け入れようと思います。しかし、指導教員の場合、その「常識」は、常識でないことは明らかなのです。

 

 

自分のなかの「常識」をもとにして、誰かの言動を判断することは、非常に危険なことだと思います。仮に世の中の共通了解としての一般常識があると考えるとしても、その人のいう「常識」がその一般常識と合致するかといえば、必ずしもそうであるとはいえないはずです。むしろ、そうでない場合が多いでしょう。指導教員は、「常識」なんてもっともらしい言葉をつかって自分の思い込みを正当化しようとしていますが、これは、本当に間違っていると思います。これは、「常識」なんかではなく、ただの偏見・思い込み・凝り固まった考えなどで呼ばれるものでしかないでしょう。

 

 

自分のなかにある価値観や常識が正しいわけなんて、ほぼないのに(明らかに正しいといえるのは、法律で禁止されたことを守ろうとする、遵法意識のくらいでしょう)、それをもとにして、誰かを評価するなんて、おかしなことなんです。

 

 

 

2. 誰かの「できないこと」は、その人にとって本当に「できないこと」であろうこと

私は、指導教員から異様な量の予習を押しつけられてしまったことがあったのですが(その量は、ほかの教員からみても異常な量であった)、その際に、その量をこなすことができないと主張しました。しかし、その私の「できない」という主張は、指導教員からすれば、「しない」だけであると言われてしまったのです。

 

 

 

この、「できないと主張するのは、甘えでしかなく、また、できない理由は、本人の努力不足であったり、しようとしないだけであったりするだけである」というのは、ある種のエリート理論だと思います。というのは、自分にできないことがないと感じている人間ほど、このような感覚を抱きがちであるようだからです。現に、私の指導教員は、大学教授という、一般の人々がうらやむようなエリートであるわけで(どういう経緯で大学教員という職にありつけたかということは、普通の人々は知らない場合がほとんどです)、ある種の無敵感を身につけて生きているからこそ、このような発言ができるのだと思います。

 

 

しかし、世の中には、何をどう工夫してみても「できない」という場合があります。また、世の中にいる人全員が、お互いに「できるはずだ」と思うようなことができるとも限りません。このことを理解することなく、相手にも自分と同じ水準を当然のように要求し、それが要求しえないからといって、相手をダメな人間だとして烙印を押すようなことは、してはなりません。

 

 

 

***

 

 

以上に挙げた2つのことは、私自身がこれまで他人に対してしてしまったことがあることでもあります。自分がいざ、人からされてみて、これほどまでに苦痛なものであることが身にしみてわかりました。

 

 

相手のことは、相手の価値尺度や相手の能力など、自分にはわかりかねる要素によって決まっているはずなので、自分のなかの判断枠組みで相手のことを考えすぎない、ということを心がけていきたいと思います。相手の考え方を理解しようとする、その姿勢こそが、相手を尊重することに繋がるのではないでしょうか。

 

 

 

(余談)

2年生になってから、久々に指導教員が何か言ってくるなと思っていたら、こっぴどくやられてしまいました。しかし、今の私は、昔の私(M1の私)とは違い、やられっぱなしではありません。3月に通った自動車教習所で出会った指導員の方々の話術をさまざまに取り入れて、指導教員を翻弄させてみました(翻弄させたと思っている)。礼のない人間に、礼を尽くす必要なし、ということで(そりゃもうアカハラだし)、好き勝手やりました。いやぁ~、すっきりしました(とはいえ、私は心の弱い人間なので、さんざん暴言はかれまくった後に研究室でひとり何十分も泣いてしまいましたけどね・・・。てか、関係ないオーディエンスがアカハラ指導教員に加勢して、n対1で言ってくるなんて、どうかと思うぜ!!!!)

心の中には、指導員の方々からもらった言葉が生きている・・・・・・そのように思いましたし、なんだか心強くなりました。教習所に行って良かったなぁ~。

一つ諦めた分、一つ手に入れたものがありました。

19時間の運転免許証-免許取得からたった1日で写真を変更した話-

こんにちは。

 

先日、無事に教習所を卒業し、数日間の自主勉を経て、免許センターへ本免試験を受けに行ってきました。1発で無事に合格し、念願の免許証を手にすることができたわけですが・・・・・・先にネタバレ的に書くと、そこに写っていた自分が、とある二つの理由からあまりにもヒドイ状態だったために、翌日、スグに免許証の写真変更に行った、というお話です。

※記事タイトルは、某社会学者の『15時間の花嫁』にかけています。なお、内容については、読んだことはありません。

 

 

***

 

 

私が住んでいる地域の本免試験は、他の地域のそれに比べて非常に難しいものであると言われていたため、試験を受ける日まで、毎日(と言っても、2日間くらいでしたが)切羽詰まりながら試験勉強をしていました。

前日には、「闇校の早朝講習に行こうかな…」と一瞬血迷いましたが、手元にある、教習所入所時になぜか配布された闇校の問題集を繰り返し解くことに専念しました(これでは、結局のところ、闇校を利用したも同然であるといえるでしょう笑)。

 

 

 

試験当日、闇校から出てくる受験生を片目に、免許センターへ出発。

試験開始まで、自分の座席に着席してから1時間半以上あり、その間に、学科教本をかなり復習できたと思います。

そして、試験を受け…無事に一発合格しました。それも、100点満点で!

これは、個人的に非常に嬉しかったです。免許センターの方から、試験の成績表が配られるのですが、100点と記載してあるそれを見た時には、嬉しさのあまり、変な声を出してしまいました(隣の席の人が奇妙な顔でこちらを見ていました)。

 

 

 

ここまでは、良かったのですが…

その後、休憩を取ったのちに、免許取得のための手続きに入ります。

これがあまりにも長いこと…。朝早くから試験場に向かっていた自分は、この時点でかなり疲れ果てていました。

そして、写真撮影の際に事件は、発生しました。

春休みということもあり、新規の免許取得者が非常に多く、免許センターの担当者側もかなりピリピリしていて、免許取得者に対して、「早く!」「##をすると、後ろの人が詰まるから、絶対にしないで!」などといった怒号に近いものが飛ばされていました。私は、そういったピリピリとした雰囲気に萎縮しやすいタイプなので、写真撮影の列に並んでいる時点で、かなり脂汗をかいていました。撮影場所に入って、強く言われるのも嫌だなあ…と思い、とりあえずもうなんとか怒鳴られずに写真が撮れればいいや!と思い、適当に写真を撮りに行きました。

これが大失態でした。

 

 

 

数時間の休憩時間(免許作成のための時間)を経て、ようやく完成…!長かった…!と思いながら受け取ったその免許証を見て…

コイツ誰〜〜(もちろん、正真正銘「私」です)

めっちゃブサイク〜〜(元々ひどい顔なのに、さらにひどい)

あまりにも見た目がひどくて身分証明書として人前に出したくない〜

そうなんです、血と涙の成果として受け取った運転免許証に映った「私」は、普段の証明写真とは比にならないくらいブサイクに写っていたのです。朝早くからあれだけ頭を使っていれば、午後には浮腫んでしまうのも仕方ないだろうとは思いますが…それにしてもひどい。しかも、顔のむくみだけでなく、目線も上向きになっていて、顔全体が上に上がってしまっていたのです。空に召されようとしている何者か、という感じでした。

 

 

 

そして、疲れからくる顔の写りの悪さに加えて、私は、一つ、人為的かつ重大なミスをしでかしてしまいました。

それは、青い服を着てきてしまったということです。青い服をきてしまっているということは…、そうです、私は、背景に体が飲み込まれてしまったのです。換言すれば、背景からブッサイクな顔のついた首が生えている、という状態です。

 

 

 

どの点をとっても救いようがない…これでは、人前に免許証を出したときに、笑われてしまう…こんな被害妄想で頭がいっぱいになったために、せっかくの免許を取得しても全く嬉しさのないまま、帰路につきました。

 

 

そして、家に着いて、私は、企みました。

そうだ、明日、免許証の写真を変更しに行こう!!!!

 

 

翌日、朝イチで、免許証の写真の変更を受け付けているセンターに行ってきました。

なぜ免許交付からたった1日で写真を変更しようとするのかと聞かれるのではないかとハラハラしていましたが、職員の方から詳しく何かを聞かれることはなく、手続きは非常にスムーズに進みました。写真撮影時には、非常に親切に対応していただけて(きちんと身なりを整える時間を下さったのです)、ゆったりとした気持ちで撮影に臨むことができました。

 

数十分後に写真変更がなされた免許証を受け取りました。

それを見てみて、非常にホッとしました。

いつも撮るような証明写真と同じような写り方の自分だ…!(それなりに写っている!)

これならば、まだ人前に出せるような運転免許証だ…!

 

 

そういうわけで、私が一番最初に手にした運転免許証は、交付からたった19時間でその役目を終えることとなりました。

 

 

運転免許証の写真を撮影するときは、絶対に青い服を着てはならないし、顎を軽く引いてカメラを見る必要があるということを学びました。

教習所の日の思い出

先日、通っていた教習所を無事に卒業することができました。

卒検の日は、あいにくの雨で、(天気の良い日に比べると)歩行者が少なめであるというアドバンテージはあるものの、それを上回るほどのデメリット、すなわち、視界の悪さがあったために、とにかくストレスを感じました。

 

 

課題走行にかんしては、個人的には、あまり問題なくできたと思っています。ただし、検定員のかたから、「右左折時の左右の寄せが甘い」とのご指摘を頂いたため、あまり手放しでは喜べない状態だな・・・とは思っています(検定員のかたが「合格」とくださったのだから、あまり変なことを考えなくてもいいのでしょうけれども)。

 

 

問題は、所内の課題でした。私は、方向転換をしました。練習の際には、方向転換を失敗したことはなく、指導員のかたに「全然問題ないじゃないッッスか!」とまで言ってもらえた私でしたが・・・・・・雨の日であること、課題走行→縦列駐車後の一番最後の課題であったことから、既に疲労困憊であった私は、大失敗しました☆

すなわち、車を道路の真ん中に置くことができず、車は、あきらかに左に寄りすぎていたのです。最初から、その状態を直しておけば良かったのですが、「いけるっしょ・・・」と自分を過信してしまったために、切り返しを3回もするはめになってしまいました。左の前輪が縁石にあたったときは、そんな状態になったことがなかったために、かなりパニックになりましたが、いったんおちついて、『最初からやり直しさせてください』と宣言して、一からやり直しました。一からやり直したら、普通にスルッと入ったので、やはり・・・車の位置にもっと気を配るべきでした。

 

 

それでも、きちんと通れたので、最終的には合格を頂きましたが、車内で最後に検定員のかたに、「なぜ通れなかったわかりますか?」と言われたときには、自分に対する悔しさがこみあげてきました・・・もっと丁寧にやっていればなぁ。コースに入るときに、適当に「こんな感じで良いか」と入ってしまったことが、とにかく悔やまれます。

 

 

本当にギリギリの合格だったのだと思います。褒められたポイントがほとんどなく、なにがダメだったと思いますか?とか、××には要注意ですとか、そんな話ばかりで・・・まぁ、褒め殺して卒業させてもあまりいいことなんてないとは思いますけれどもね、でも、結構キました。くるまって難しい・・・。

 

 

あの雨の日の卒検を一生忘れることはないと思います。

過信は禁物、というわけです。きちんと丁寧に、やりましょう・・・。

 

 

 

無事に卒検合格をもらった私は、最後の最後に衝撃を受けることになります。すなわち、卒業式で配布される資料が、学科教習の際に私がいつも座っていた座席に置いてあったということです。私は、いろいろあって、卒業式の集合時間ギリギリに会場に行きました。他の参加者は全員すでに座っていて、いろいろとアンケートを書いたり、配られた資料を読んでいたりしました。その場に来ていない参加者と言えば、わたしだけだったというわけです。そして、私がいつも座ろうと思う場所と、私がこれから座るべき場所が合致していたことに気づき、驚きました。

もしかして、私がいつも座っていた場所は、把握していただいている・・・・・・!?!?

たまたまかもしれませんし、意図的においてくださったのかもしれません。いずれにせよ、その合致は、私にとって衝撃的なものでした。

 

 

 

卒業式、という名称のものに参加したのは、約1年ぶり(学部の卒業時以来)でしたが、やはり卒業式というものは、いいものだなぁ~としみじみと感じました。卒業とは、エモい・・・。私は、短期の合宿コースだったので、その教習所に2週間ちょっとしか通ったことはありませんが、過ごした時間がそれなりに長いせいか、ちょっぴり感傷的になりました。

 

 

教習所での出会いは、一期一会だったと思います。一人一人の出会いに、すごく刺激を受けましたし、相手を知ることがとにかく楽しく感じられました。そこの教習所は、私の地元ではないからこそ、もう二度とは会わないだろう(会うとなると、それはなんらかの交通法規違反をしたということになる・・・)指導員の方々や同じ教習を受けた子たちに対して、えもいわれぬ感情を強く抱きました。

 

 

 

教習所で過ごした日々は、とにかく楽しかったです。

ここ3年間で、一番笑った日々でしたし、精神的にも非常に安定した日々を送ることができました。

 

 

唯一つらかったことといえば・・・、セット教習です。とあるセット教習の際、一緒に組んだ子が18歳のピチピチJKで、長く通っているからか、指導員ともかなり仲が良くて、親密な雰囲気が漂っている子でした。その子には、指導員は、めちゃくちゃ褒めるんです。持ち物や身につけているものを、とにかく褒めるんです。私はというと、、、そういうのは無かったです。世の中、若い子の方が有利だってことですね。5個も年下だしねぇ~現にかわいかったしなぁ~・・・。10代の子のピチピチ感には、23歳は勝てません・・・。私自身、美人とかじゃないしね・・・。その日は、自己肯定感が爆下がりで、とにかく寝ました。

 

 

 

まぁ、そんなつらいこともありましたが、なんとか無事に卒業できて良かったです。早いうちに本免試験を受けに行こうと思います。

そして、免許を無事に取得したら、初高速ドライブに、憎き指導教員を連れて行きたいです(もちろん助手席で)♡ 夏までに実現したいです!

自動車教習所で過ごす非日常

今月の上旬から、自動車教習所に通っています。普通自動車免許を取得するためです。

 

 

4月からはまた指導教員による「しごき」などによる地獄の生活が始まってしまうため、免許を取るなら3月中に、と思い、短期の通学合宿コースを選択しました。今は、毎日(!)頑張って教習を受けています。

 

 

私は、あえて地元の教習所には通わず、祖父母宅のある市内の、母の出身校である教習所に通うことを選択しました。自宅からはかなり離れていて、電車と送迎バスの時間を合わせて50分くらいかかる場所にあります。そのため、いろんな方から「ずいぶん遠くから通っているね」と言われます(祖父母からも非常に驚かれました)。

 

もっとも、遠い、と言っても、なんやかんや春休みに普段とは違う方向に行くのは、非日常的で非常に楽しいですし、私自身、その地域に行くことをいつも楽しみにしているので(行きつけの美容院がその地域にあるのですが、そこの美容師さんに、「あなたはいつもこの街を満喫しているよね」と言われます)、通学すること自体に負荷を感じるようなことはありません。

 

 

その教習所を選択した理由は、他にもあります。それは、地元ではないところの教習所に通う方が、圧倒的に気が楽であると感じることです。現に、のびのびとした教習所生活を送っています。ここには、絶対に知り合いはいない―このようにわかっているだけで、変なプレッシャーがかからなくなります。

また、知り合いがいないからこそ、年齢に基づく劣等感を変に感じる必要がないということです。私は、現在23歳なのですが、今教習所に来るような人の多くは、高校を卒業したばかりの18歳の子達です。すなわち、私は、そのような大多数の子達に比べて、免許をとるタイミングが遅い、ということになります。このことについて、私は、免許を取るタイミングが早かろうが遅かろうがどちらでもいいと思っているので、あまり気にはしていません(一生持たない人もいるくらいです)。とはいえ、入校前は、なんとなく、私は、多感で未来ある若い子たちに対する劣等感を抱かざるを得ないのかな…と思っていました。しかし、いざ入ってみると、知らない子たちだからなのか(そうでなくてもなのか)、年下の子たちのことがなんとなく微笑ましく感じられるということがわかりました。5歳も離れていれば、こんなもんなんですかね。春から入学する大学のレベルでマウンティングをとりあう人たちを見ても、「大変だなあ」くらいにしか思わなくなりました(昔は、なんとなく自分の心がザワついて、劣等感に苛まれることがほとんどでした)。

 

 

このように、距離の遠い、普段は行かない場所であるという点、また、周りにいる人たちが普段よりも総じて若いという点、知り合いが全くいないという点で、この教習所ライフは、私にとって非日常的なものであると感じられるわけです。

 

 

教習所での教習に関しても、予想していたよりも非常に楽しいことが多く、変に気張らなくてもいいので、この点についても非日常的であると感じています。

指導員の指導は、本当に素晴らしいなと思っています。すなわち、指導員の指導の方法に感動することや、話術の上手さ、学生の褒め方の適切さに感服してばかりです。そのため、私は、自動車の運転を学びながら、"適切な指導のあり方"をも学んでいるような気がしています。指導員の方たちのような人が大学院にもいてほしいな〜と切実に思っています。

 

 

最初こそ、(自分でその選択をしたくせに)不安しかありませんでしたが、数日通ってみた今となっては、楽しさと学び、そして指導員に対する尊敬の念しかありません。ここまで充実した日々を送れていることこそ、非日常的なものです。

 

 

 

 

 

ちなみに、私が唯一、教習所にかんすることで後悔していることがあります。それは、多感な時期に教習所に通わなかったからこそ、「教習所マジック」とやらをどこか遠くから見てしまうということです。この「教習所マジック」という言葉自体、23年間生きてきて一度も聞いたことがありませんでした(ゲレンデマジック、はある)。どうやら、数年前から使われだした言葉で、教習所の教官に、吊り橋効果からなのか恋愛感情を抱いてしまう生徒がいるようです。

知恵袋やツイッターでもちらほらそのようなマジックにかかった人を見かけたのですが、私は、なんだかそれが微笑ましく、そして尊く感じられてきてしまいました。すなわち、自分がマジックにかかるというよりかは、マジックにかかった人を遠くから尊さの対象として見てしまうというわけです。なんだか、かわいいね…いいなあ…と思います。私は、多くの人が「教習所マジック」にかかる時期に、違う場所で違うマジックにかかっていたので、ぜひとも教習所でかかってみたかったな〜と思います。

 

 

もう23歳にもなると、指導員に対してそんな邪な感情を持つこと自体、申し訳なくて無理です。これまで、歳が近かったり、同い年だったり(これが一番驚いた!なんだか嬉しかった!)する指導員の方に当たり、そういった方々とほんのちょっと話しただけでも素敵な方だな〜と思いましたが、恋愛感情を抱くことなど不可能です…圧倒的な申し訳無さと、見込みの無さ(たいていそういった素敵な方には、決まった人がいるのですよ、みなさま)によって、スン…と理性的になるからです。理性がぶっ飛べば、「ホス狂い」や「リアコ」と変わらなくなってしまうな〜なんて思っています。したがって、そのときそのときの、一瞬の夢みたいな楽しさとして思い出の一つになれば、それはそれでこれからを生きる糧になっていいんじゃない?というスタンスでいろいろな出来事を捉えることにしています。

(ちなみに、この記事を読んでいらっしゃる方で、教習所マジックに悩んでいる方に朗報です。私の母の友人の両親は、教習所で知り合いました。父親が教官、母親が生徒だったそうです。希望が持てそうですね!草草の草。)

 

 

今が非常に楽しいので(運転は下手だからいつもヘコみますが…)、教習が終わって、また4月から研究室で過ごす頃には、「本当にあの時間はあったのだろうか、幻でも見ていたのではないか」なんて思うのではないかと思います。確かに、その時間を過ごしたはずだけれども、その「事実」に対する確信も実感も持てないのではないか、というわけです。私は、確実に「教習所ロス」になると思います。あれ、これこそ「教習所マジック」…??

 

 

ともかく、いつか懐かしむであろう日々を今生きているということが、エモくて仕方ないです、最高です!

 

教習所の日々は、「ただ春の夜の夢の如し」。

 

 

仮免許を無事に取得したので、安全運転を心がけて路上教習に臨みたいと思います!

【pomera DM200】「令和」を手に入れたかわりに、約4年分のデータを失った(アップデートの際は、バックアップ必須!)

KINGJIMさんは、きちんとソフトウェアアップデートの説明ページの冒頭に注意書きをしてくれていました。

「大丈夫だろw」とたかをくくった私が悪いのです!もうめっちゃ自業自得!

ご注意

ソフトウェアのアップデートを実行する前に、必ず本体メモリに保存されているファイル、単語登録データのバックアップをおこなってください。

※データの損失および損失利益などにつきましては、弊社では一切その責任を負いかねますのであらかじめご了承ください。

www.kingjim.co.jp

 

 

こんにちは。

 

先日、2019年の春から愛用しているポメラDM200のソフトウェアを、ようやくアップデートしました。ソフトウェア自体は、数年前に公開されていたのですが、めんどくさがりな私なので、アップデートすることをずっと放置してきました。

 

卒論は、6割をポメラで書きました。その際、「令和」がぱっと変換できなくて不便だなと思っていました。そこで、単語登録して済まそうかなとも思いましたが、それもなんとなくめんどくさく感じたために、令と和を分けて入力していました。

 

そろそろ修論も下書きに入らないとなぁ・・・と思い始めた今日この頃、ついにポメラのソフトウェアアップデートを決意したわけです。やっぱり、自分で手作りした令と和(令和)よりも、本物の、既製品としての「令和」が欲しくなったのです。

 

 

正統性のある令和が入力したい・・・!思い立ったが吉日、スグやろう!

データの保存?バックアップ?大丈夫っしょ!今まで色々ソフトウェアアップデートをしてきたけど、データがとんだことなんて一度も無いし!(フラグ)

 

 

安易に考えて、やってしまいました。

 

本体情報からアップデートをし、「pomera」の文字が出て、再起動し・・・

 

ムムム!!

 

データがすっからかん!!(残っているのは、アップデートファイルだけ!)

 

ワオ!

 

さよなら!2019年からの約4年分のデータよ!(大学時代に書いたデータは全てサヨナラ!これはこれで、ある意味スッキリしました笑)

 

 

思わず、オフコースの『さよなら』を歌ってしまいました。

 

 

一応、私の場合、ポメラを、ブログや論文、レポート執筆のための下書きを書くためのマシンとして使用していたので、ポメラに入っているデータの8割は、何らかの形(このブログや、Wordファイルなど)で「清書」されています。したがって、完成形の文書と、このポメラに保存されている下書き段階の文書は、重複している場合がほとんどです。それゆえに、あんまり困らないので良かったのですが・・・。

また、幸運なことに、今執筆中の記事の下書き(途中段階)と修論の下書きデータを、たまたまアップデートの直前にメールで送っておきました。この二つは、今日の私にとって、最も重要なデータです。もしこの二つのデータが消えてしまったら、ガチで鳴いていたと思います。

 

 

(ちょっとした)問題は、残りの2割のデータ、すなわち、下書き段階のまま放置されていたデータです。正直なところ、今思い返してみても、なにがあったか覚えてすらいないのですが・・・なにかあったはずです笑

 

ソフトウェアアップデート自体は、成功しました。れいわ、と打って、すぐに「令和」と出てくることに感動しました・・・正統派「令和」最高!!

 

この記事を読んでくださっている方で、これからソフトウェアアップデートをしようと考えていらっしゃる方がいましたら、必ず、本体保存データのバックアップをするようにしてくださいね!

「漫画やドラマなどの作品に感情移入しすぎる病」がつらくてしんどい-とりわけ「物語に自分が入り込みたい病」について-

ここ最近の悩み、それは、漫画やドラマなどに感情移入しすぎて、精神的にしんどくなりやすいということです。

 

 

私自身、現実に不満を抱えているときこそ、漫画を読んで架空の世界を覗きに行こうとする傾向があるように思います。そういうときに漫画を読むからなのか、ストーリー展開に対してモヤモヤを感じたり、作品のこれからの方向性を場合分けして予測したり、自分がこの作品のキャラクターだったらどう振る舞うだろうかと考えたり、登場人物の性格や発言の意図や意味を考えたり、人物間の発言がそれぞれの人物にどのような影響を与えているのかを予想したり・・・と、私は完全にその物語の世界の住人としての意識を強く持つようになってしまうのです。

 

 

現実と「漫画の世界」とは別物であり、後者はフィクションである、という二元論をきちんと維持したまま、作品を楽しめればよいのですが・・・。どうも私は、そうは考えられないのです。というのは、自分が見聞きできる世界など、ほんのわずかな範囲でしかないのだから、自分が知らない世界で、「漫画の世界」が存在している可能性もあるのではないかと思ってしまうからです。

 

 

 

このことは、私はとりわけそれぞれ登場人物の心理描写が丁寧な恋愛漫画を好むという傾向に由来するものであるかもしれません。

例えば私は、おととしは、原作もぁらすさん、作画袴田十莉さんの『Liar』にどっぷりとハマっていました。

少し前は、桃森ミヨシさんと鉄骨サロさんの『菜の花の彼-ナノカノカレ-』にとんでもなくハマっていました。

今はというと、

広田奈都美さんの『彼の香りと私の匂い』にめちゃくちゃハマっています。

ここに挙げた作品はいずれも、SFとかファンタジーの要素はほぼなくて、まさに「現実」を舞台にした作品であると思います。しかも、登場人物のなかに妖精や神様といった「架空の存在」出てくることもありません。だからこそ、今私が生きている現実と同じ世界線で、このような漫画の物語が存在しうると思ってしまうのです。

 

 

 

とりあえず、抱え込んでいる感情を吐き出せば、感情移入の度合いも収まるんでしょうか・・・。(ネタバレを多少含みます)。

先ほどの『彼の香りと私の匂い』についていえば・・・(8巻まで、途中とばしとばしでしか読んでいないのですが、)

黒木先輩、かっこよすぎ・・・イケメンで私のドタイプ。奥目っぽくて、黒目がちで、少し眉毛太めのモッサリ・・・骨格も・・・すき・・・。現実に似たような男性(服装も、顔立ちも)を見たことがあるから、やたらリアリティを感じてしまう。しかも、これまで恋を知らなかったとか、かわいすぎる。みどりに依存しすぎて、みどりの言動一つ一つに振り回されて、心を消耗してしまうところ、少し暴走しすぎてしまうところも、かわいくて推せる。なにより、激しい肉欲を抱えているというだけでなく、おだやかな対話も好むというところが素敵。誠実で、優しくて、乙女で、普段はおだやかで、かっこよくて、ちょっとめんどくさくて、自分に自信がないところが好き。こういう人が彼氏だったら良いね、ちょっと重いけど、愛する覚悟があるよ。(浮気するところまではそう思えていた)

なーんで浮気してるんだよ…どんなに寂しかったとはいえ、浮気はだめだろ!恋愛経験が少なすぎるがために、「寂しさ」に、「自分」に弱すぎて、浮気・不倫してしまうのはある種『だろうな…』感はあるけども。浮気しながらもみどりのことがすきみたいだけど、結局は、香はみどりの身代わり人形なの!?なんなの!?なぜか香のことも欲しくなるって・・・先輩、いつからそんなに強欲になったの!?てか、あんなピュアで一途だった先輩が、突如として浮気しても妻の前で自分を乱さずにいられる人間になってしまったということが、ショックでたまらないよ・・・どういうスタンスなの!?「想いがないっていったら嘘になる」とはなに!?(混乱)先輩、なんかもうタダのめんどくさい女々しい男みたいになっちゃってるし、とにかく痛々しいよ…どす黒くなってしまった先輩に幻滅だよ…。

みどりもみどりで、自由奔放。なんだよ、白川のことも好きって…不誠実じゃないか。まして、先輩と結婚して、その後、先輩を放置するとか、なんなんだ!いっそ結婚しないほうが良かったよ…。そりゃ先輩も5年も不倫を続けるわな!もとはといえば、みどりがふらふらとして(おそらくそれは自分が自由でいたいが為の態度)、先輩と距離をおこうなんていうから、先輩は変な女(香)にとりつかれてしまったのでは!?「わたしが先輩のそばにいたら傷つけちゃう・・・」という考えについて、私としては、その考えこそが先輩を傷つけてしまうと思う。先輩は明らかに依存型の人間であり、そういう人は、依存対象が自分から離れていくことを極度に恐れるし、依存対象がなくなったときは、それと似たものを探すし、依存対象が自分の物にならないときは、その不安を似たもので埋めるもんだと思う。先輩のその性質を見抜けなかったのか、それとも、見抜いていてあえて目をそらしたのか。

みどりの前向きな姿勢、ポジティブさ、長いものに巻かれようとせず、物怖じせずに男社会・タテ社会に異議を唱えて、対等さ・正しさを追求していく姿勢は大変素敵だし、私自身見習いたいと思う。けれども、恋愛に関して、自分の本当の気持ちに対しては真正面から向き合っている感じがないし、相手ときちんと向き合うことや「一つの結論」を出すことから逃げているように感じる。みどりが出す結論は、どれも独りよがりなものであると思う。その結論は、相手にとってよいものであるだろうと思って決断するみたいだけど、それは少し間違っている。愛される側の傲慢さか?みたいな白川の発言があったと思うけど、まさにこれなのだろうか。もちろん、本能的に惹かれる人間と、理性的に惹かれる人間のはざまで気持ちが揺れることは、一般的にあるだろう。しかし、この日本の法制度を鑑みれば、"ひとりにきめる"ということがルールであるし、もし本当に選べないというのであれば、どちらも選ばないという選択をすべきなのだろう。それなのに、みどりは、先輩と白川の間で揺れて、どちらかに寄って、また戻って・・・ということを繰り返しているように思われる。これが魔性の女ってやつなのか!?みどりは、自分で自身のことを「サイコパスかも」みたいに言っていたと思うけど、そういう人のほうが幸せになれるんだろうか!?私だったら、先輩を放っておくことはしないし、おそらく、仮に白川を好きでも、抱かれたいとか思わないよ・・・人に対して誠実でありたいから。おそらく、先輩は人に対して誠実で、純粋さも兼ね備えていると思うが、先輩は、ある意味で「破滅」してしまった、精神的に。みどりみたいに器用ではないし。そう思うと、誠実でいることは、恋愛においては、自分を破滅させる要因ともなりうるのか。

そうとも限らないかもしれない・・・というのは、先輩は一般の人よりもとくに純粋で、相手に対する依存心が強いからだ。これまで自分という存在を受け入れて貰ったことのない人間は、ある日突然自らが誰かに受け入れられると、その誰かにとくに依存する。実際、そういった描写も多々あったと思う(「こんな俺を受け入れてくれる・・・」)。依存先をその「誰か」のみにするのはいいとしても、その「誰か」に依存できないときのフラストレーションを適切に処理(例えば、趣味や仕事)できるようになれば、先輩は浮気なんてしなかったんだろう・・・。また、先輩は、なぜか欲情が暴走する場合が多いみたいである。となると、先輩は一般的な「誠実な男性」像とは少し違った人物といえるのだろう。

てか、これまでモテなかった男性に彼女ができると、急にモテ出すのなんなんー!?自信がついて輝いて見えるからなのか!先輩、不倫してたこと、それを隠してたことはぜっっったいに悪いけど、みどりも悪いし(私だったらみどりみたいなことはしない・・・)、どちらかといえば、先輩のほうがかわいそうとすら思うんだよ・・・私がきちんと先輩と向き合うからさ!!!!ねぇ!!私に先輩をちょーだい!!

 

みどりは、先輩のことを好きだったのかな・・・何も知らなかった頃の先輩との日々が幸せだったと思い返しているシーンで胸が苦しくなってしまった・・・うぅ・・・続きが気になる泣。(可能であれば、みどりにも『誰かに取られたくない』みたいな独占欲に近い気持ちとかを知ってほしいなと思う。)結局、みどりも先輩のことを愛してたってことじゃないの!?白川への気持ちは、恋みたいなものなのでは?!

(・・・というか、この漫画、恋愛漫画としても面白いのだけど、実は色んな二項対立をはらんでいて、ますます面白い。ぱっと思いつくだけでも・・・黒木と白川、男と女、会社で生き抜くための正しさと道徳的な正しさ、誰かに依存する女と独りで自立する女、本能と理性、普通の人と「異端の人」、正規雇用と非正規雇用、愛される女と二番手にしかなれない女、結婚と恋愛、誠実と不誠実、一つに選ぶことと何も選ばないでいることなどなど・・・。考えさせられる。)

 

 

 

 

というふうに、一つの作品に対して、あれやこれやと考えや妄想が止まらなくなるのです・・・(実は、まだ全話読んでいないのです、読めば読むほど深みに入って、さらに思考がとまらなくなる)。四六時中、このことで頭がいっぱいになります。周りから見ると、常にぼーっとしているみたいです。

 

上記の感想に対して、下線を引いた部分がありますが、これこそ、私が一番困っている「漫画の内容の現実へのあてはめ」や「漫画の世界と現実の世界の"融合"」です。漫画の内容と、今私が生きている世界は、完全に別物です。しかし、その世界を現実に落とし込んで、それがどうなのかということを考えたり、その世界に入って自分もキャラクターと向き合いたいと強く願ったりしてしまうのです。前者については、ある種、現実とも近い「人間観察」であるともいえるのですが、後者については、絶対に実現することはできません。それなのに、実現したいと思ってしまう・・・。二次元キャラと恋したい!みたいな気持ちと近いのでしょう。もっとも、私は恋愛漫画に限らず、巧妙な心理戦を背景とした社会派漫画の場合でもそのように感じるので、もはや「二次元の住人になりたい!」みたいな気持ちのほうが強いのでしょう。

 

 

 

遅すぎた「中二病」なのでしょうか・・・いや、よくよく考えてみれば、私は「物語の世界に自分が入り込みたい病」を、五歳くらいのときから発症していたようです。

私の初恋は、ゲームのキャラクターで、それも動物です(半分人間、半分動物というキャラ)。とくに恐ろしいのは、私の幼少期の絵には、その動物キャラと結婚式を挙げているものが多いということです。この頃から、二次元と恋できると思っていたとか・・・痛すぎる。

 

 

 

そういうわけで、23歳になった今でも、「漫画やドラマに感情移入しすぎる病」、とりわけ、「物語に自分が入り込みたい病」が酷いのです。

この「物語に自分が入り込みたい病」は、物語を読んでいてもしんどいし、とにかくつかれます。何せ、当事者目線で読んでいるからです。登場人物の言動に、この私が一喜一憂しています。

そして読み終わって作品を振り返っているときも、自分のこの「物語に入り込みたい」という願望は、決して実現されることはなく、だからこそ、その実現されないという現実に不満を感じてしまうのです。

それでも、結局、意識はその作品の「中」にあり続けることになります。

 

 

 

私もまた、依存性が強いのかもしれません。その対象が人物ではなく、コンテンツであったというわけです。

私自身、何でも話せる家族はいますが、友人や恋人などの関わりはほぼありません。敵意むき出しの指導教員と研究室同期との関わりはありますが・・・(トホホ)。私が、このような「不健全なコミュニティ」(話せる人が家族しかおらず、それ以外は全員「敵」であるという状態)に居続けることが問題なのかもしれません。そういえば、一時期、今よりももっと酷く作品に感情移入してしまい、日常生活をまともに送ることができなくなってしまった時期があったのですが、その頃は、ちょうど学内で嫌がらせを受けていて、クラスでは四面楚歌状態にあったということがありました。やはり、「不健全なコミュニティ」にいるからこそ、現実の世界(=外の世界)に向かって、自分を展開していくことができず、自分の中にこもっていくしかないのかもしれません。

 

 

 

このままいくと、作品の「中」に意識がずっと入り込んだままとなってしまうし、それによって、今現実世界を生きているという「生の感覚」すら失われてしまうでしょう。少なくとも最近は、自分がこもることができる「殻」(概念)が厚くなってきてしまったと言いますか、自分の「音響室」の壁がどんどん厚くなってきてしまったような感じがします。作品の「中」に自分の意識は取り残されているけれども、やはり自分は現実を生きなければいけない―――その結果として私は、内なる世界に引っ張られて、ますます自分の意識がそこに向くようになってきていて、それと比例するように、現実世界の肉体としての「私」は、現実世界において「無」となってきてしまっているようです。

 

 

どうしたものでしょうか・・・やはり、まずは「不健全なコミュニティ」を改善することが必要なのでしょう。そして、興味の対象物を分散させたり、有体物に対して興味をもつようにしたりしていくことが必要なのでしょう。根本的に改善するならば、24時間ものごとを考えるくせをやめるということも必須でしょう。

うーん・・・自分で言っておきながら、難しいですね・・・幼少期からの問題だからなおさらです。心療内科に行くのが一番手っ取り早そうではありますが・・・。現実的な対策を少し考えてみたいと思います。