【判断基準】資格試験の自己採点をするべきか?
こんにちは。innu_inuです。
先日私は、とある資格試験を受験してきました。
本当に久しぶりの会場型受験だったので、色々と困惑したことも多かったです・・・が、なんとかやりきりました。
とりわけ辛かったのは、試験時間中にお腹を壊したことですかね・・・教室中にゴロゴロと音が響いていて、大変申し訳なかったです。
試験を解いた後は、基本的にハイになっているので、自己採しようかな・・・?とウジウジすることはないのですが、1日くらい経つと、「ああやっぱ自己採しなきゃ!でも現実を知りたくない!」という葛藤が始まります。
結局、今回は、きちんと自己採点をしました。
したら、気持ちがスッキリすると思ったからです。合否の予想も立ちやすくなりますし、なにより、今後の身の振り方を計画しやすくなると思ったからです。
ところが、そうはいきませんでした。
というのも、当該試験には記述問題がありまして、その部分の採点については、誰も予想することができません。すると当然に、記述抜きで、まずは自己採点をするしかありません。記述抜きで、合格基準を超えていれば、気持ち晴れやかに今後を生きることができるのですが・・・
私の場合、記述抜きの点数では、合格できませんでした。しかし、記述の点数次第では、十分に合格可能性がある点数でして、さらに言えば、自分の記述問題の解答が、模範解答とほぼ同じか、すこし言い回しが違っていても意味は同じ、という絶妙に微妙なものなのです。
大きく外していれば、「ああもう運任せじゃん☆」と言うくらいに割り切れるのですが、絶妙に微妙なので、これを外しているとなると、結構ショックですね・・・笑
結果が出るまで相当長い時間があるので、その間、いかに当該試験の記憶をなくすことができるか、がメンタルヘルスのために重要になってくると思います。
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やはり、自己採点というものは、安易にすべきでは無いと思います。
このように、採点に不確定要素を残している試験では、なおさらです。
自己採点が、「事故祭典」と呼ばれているように、相当にメンタルを破壊する行為であるということは、事前に覚悟しておいた方が良いと思います。
そこで、私なりにこれまでの様々な試験経験を踏まえて、自己採点をすべきもの、すべきでないものの基準を考えてみました。
【自己採点をすべき場合】
①択一式のみの試験で、マルバツをつけるだけで合否が判明する試験。
②何日かにわたる試験における、1日目の試験。
③次の資格試験の勉強をするかしないか決めかねているとき。
②のような試験においては、1日目の試験ででたところが、2日目の試験にもでる可能性がありますので、復習を兼ねて、自己採点をすると良いのではないかと思います。
【自己採点をすべきでない場合】
①択一式+記述式の試験。
②共通テストの1日目の試験(上記②の例外)。
③論述式の試験
あくまでも、個人的な経験に基づく判断基準ではありますが、もし、本気で自己採点をすべきかどうか迷っていらっしゃる方の参考になれば幸いです。
コピー用紙・ノート・ルーズリーフ、どれを使うか?
ノートを使うべきか、ルーズリーフを使うべきか、コピー用紙を使うべきか、かれこれ何十年も悩んでいます。
本記事では、これら三種類の「紙」と私との思い出、そして私が考える「紙」の性格を記したいと思います。
《コピー用紙と私》
私は幼少期~中学時代くらいまでは、とにかく絵を描くことが好きだったので、A4のコピー用紙を常に携帯していました。A4コピー用紙と私は、サッカー少年が「ボールが友達」と言っているくらい"仲良し"だったと思います。
その後はさすがに絵を描く頻度も低くなってきたので、コピー用紙を使うこともほとんど無くなりました。高校時代は、ほとんどコピー用紙を使わなかったように思います。大学でようやく、資料をコピーしたり、レポートの構想を練ったりするときくらいに使っていた感じです。
ただし最近は、このコロナ禍で、在宅ワークの要請が高まったこともあって、A4コピー用紙の使用頻度はぐんと上がりました。データで送られてきたPDFファイルを家でひたすらコピーしています。500枚のコピー用紙パックが、二ヶ月で無くなったことがありました。
そんな中で、コピー用紙ならではの特徴に気づけたと思います。
・コピー用紙1枚と「対面する」ことは、精神的負担がゼロである。
幼少期からの「相棒」だからかもしれませんが、なぜだかコピー用紙を目の前にすることの方が、ノートを目の前にすることよりも気持ちが楽なのです。ノートを目の前にすると、『ああこれがこの1冊の1ページとして残るんだな・・・じゃあちゃんと書かなきゃ・・・』みたいな気負いが生まれ、書くことを躊躇してしまうのに対して、コピー用紙一枚であれば、『よし書こう』とすぐに自分の思考を紙上に表現しようとできるのです。
別にコピー用紙を、ただの紙っぺらとして馬鹿にしているわけではありません。机の上に載せたときの、平坦さ・水平さ・無防備・孤独感、さらには紙と机との(段差的な)境界線の無さが、たまらなく良いと言いたいのです。
書ける範囲が紙全体に広がっているという、ある種の「心の広さ」が、私の思考や意識をやさしく包み込んでくれる感じがします。
・気軽に接してくれる分、アフターケアが重要になる。
先述の通り、コピー用紙は、とても心の広い存在です。紙一枚という身軽さが魅力的なのです。しかし、身軽だからこそ、「アフターケア」を怠ると、大変なことになってしまいます。というのは、きちんとファイリングするなりデータ化するなりしないと、紛失してしまうリスクが非常に大きいということです。私はこれまで、何度もアフターケアを怠ってしまったせいで、大事な思考過程をあちこちに落としてきてしまいました。
ノートとは違って、1冊見つかればページ数分の紙が見つかるということはありません。コピー用紙は、集団生活はあまり好まないようですし、あちこちふわっといってしまいがちです。
ですから、二穴パンチで穴を開けてファイリング、ポケットファイルに収納、封筒で管理、データ化などといった手段で、大事なコピー用紙を管理し、住処を明確にすることが大切であると思います。
《ノートと私》
絵を描くことが好きだった私は、漫画やイラストを自由帳に描いていました。自由帳にどんどん絵を描き、一冊使い終わると、謎の達成感を得て、またさらに新しい自由帳を使い出す・・・ということの繰り返しでした。
学校(高校まで)の授業では、ノート(中高では、ロジカルノートを愛用していました)を使っていました。大学ではルーズリーフを講義ノートとしていたため、ノートを使う機会といえば、読んだ本の感想を書いたり、論文の要旨をまとめたりすることくらいしかありませんでした。
そんなわけで、私が考えるノートの特徴は以下の通りです。
・時系列順に思考をまとめられるので、思考の検索が簡単である。
ノートの特性である「時系列性」が、後から『あれ何だったっけな』と思い出そうとするときに、とても役立ちます。実際に論文を書いているときに、『この論文を書き始めた頃に読んだ論文のメモどこかな』と思い、探してみたら、一発でそれを見つけることができました。
・真面目で規則正しい時系列性が、書くことをためらわせる。
先述の通り、順番にノートのページに書いていくからこそ、
大きくミスったことを書くと、後から読み返したときに恥ずかしくなる
違う内容のことを1冊にまとめようとすると、なんかモヤッとする
ページを入れ替えられないので、戸惑う
のです。ノートは規則正しく、真面目で、私たちが気軽に描いた「こと」をも、ガッチリ掴んで離さないからこそ、その辺の融通がきかないのです。その分、後から見返すときの検索性の高さは抜群なわけではありますが・・・。そんな、どんな私をも受入れ、溺愛してくれるノートだからこそ、ノートに何かを書き込むときは、私も誠実であらねばならないと思っています。
《ルーズリーフと私》
ルーズリーフとの出会いは、中学1年生のときだったと思います。テスト勉強を、あえてルーズリーフでやっていました。普段はノートしか使ってはいけないからこそ、ある意味良い気分転換になったと思います。
そして、大学の講義ノートに、方眼のルーズリーフを愛用していました(語学の授業では、罫線のルーズリーフを使っていました)。コピー用紙やノートに比べて、ルーズリーフを使う機会はあまりなかったと思います。
・コピー用紙とほぼ同じだが、「穴」が気持ちを惑わせる。
ルーズリーフの特徴は、この1点に尽きると思います。はっきり言って、コピー用紙とルーズリーフとは、そんなに違いは無いと思います。罫線・方眼ありといったバリエーションがあるか否か、ルーズリーフ穴があるかどうかくらいだと思います。
この「ルーズリーフ穴」が、私にとってはやっかいなのです。カリカリ考えをまとめていくとき、穴にボールぺン先が落ちてしまうことがあります。穴にボールペンの先が落ちたときに、ハッと夢から醒めたような気持ちになり、『あれ何を書けば良いんだ?』となにかよくわからなくなってしまうのです。
また、逆にルーズリーフの穴にペン先が落ちないように気をつけて書こうとすると、「穴」の存在がとにかく気になって、「書くこと」に集中できないのです。
というわけで、「穴」のない、完全無欠なコピー用紙こそが、抱擁力ナンバーワンの「紙」であると思うのです。
もちろん無地であるコピー用紙に比べて、罫線・方眼などが選べるルーズリーフの方が、色んな場面で活躍できると思いますし、なにより紙をファイルに綴じて管理する人にとっては、ルーズリーフ穴が事前に開いているという点でとても便利なのだと思います。
ただ、私にとっては、ルーズリーフの穴は、集中力の落とし穴になってしまうのです。したがって、既に書き終わったコピー用紙に後から穴を開ける方が、自分には合っていると思います。もちろん、書いた部分が「穴」として抜け落ちてしまうということが多発しますが・・・苦笑。パンチを開けて抜け落ちた記述部分が、記憶の「穴」となり、記憶からすっぽ抜けてしまうのです・・・しかし、それでもあえて後から穴を開けて使いたいと思います。
劇場版『はいからさんが通る』前・後編を観た感想
とてもとてもご無沙汰しております。innu_inuです。
今回は、アニメーションの感想を書きたいと思っています。ちなみに次回は、漫画の感想を書きたいとも考えています。なんとも一貫性がないブログですね。ですが、『雑記帳』という名前にしているくらいですから、思考の整理のためのブログ、という風に捉えていただければと思います。
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私は、小さい頃(といっても小学生の頃)に、どこかの再放送で昭和の『ハイカラさんが通る』のアニメを観ていたので、はいからさんに対してそこそこなじみがありましたし、なんとなくあらすじの記憶がありました。"アニメ版では描かれなかったラストがついに描かれます!"といった旨のうたい文句に誘われて、今更ながら劇場版『はいからさんが通る』を観ることにしました。
ざっくり感想を述べると、絵が綺麗(透明感がすごい)!!、登場人物がみんなかっこいい!、やはり不朽の名作!という感じです。
絵柄に関しては、完全に現代風になっていましたね。しかし、びっくりした顔やギャグ風になるときには、昭和の感じが残った絵になっていました。やはり私も現代っ子なので、現代風の絵柄の方が親しみやすいです笑
女子キャラは、眼がとにかく大きかったですね・・・。少女期の環に関しては、髪型も相まって、プリ○ュアのルミ○スみたいだなぁと思ってしまいました(失礼)。それでも、全体的に可愛らしく、そして聡明な感じもするので、素敵なキャラデザだなぁと思いました。
男子キャラは、めちゃくちゃかっこよく仕上がってましたね!少尉はとにかく優しい王子、編集長はクールでハンサム(ブラックジャック風!?)、鬼島はガテン系(MAJ○Rの茂野○郎風!?)、蘭丸はかわいい系男子(今で言うジェンダーレス)というように、それぞれの性格や個性が上手く容姿に反映されているなあと思います。
ちなみに、これはあくまで個人的な感覚での話なのですが、少尉はドイツ人とのハーフなのに、はっきりと金髪なんですね!驚きました!芸能人でもそうですが、日本人とドイツ人のハーフの方の多くが、髪の毛の色はブラウン(もしくは、クリームがかったブラウン色)という感じがしています。だから少尉は結構珍しいハーフな気がします。
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原作の漫画をしっかりと読んだことはないのですが、前後編4時間弱で全てを描ききるのは難しいと思われるので、どこか結構端折っているのでしょうね。一部トントンと会話が展開していく場面があったり(普通そんな速さで納得しないよな・・・?という感じがしました笑)、前編の最後の方はダイジェストの如く話が進んだりしていました。とりわけ、少尉が小倉に行くまでがあっという間だった気がします。しかし端折って上手く綺麗にまとまっている分、話がわかりやすかったように思います。
個人的に一番グッときたシーンが、後編の、紅緒が思い出の喫茶店で記憶を取り戻した少尉とお別れをした後の、自転車で坂を走るシーンです。
紅緒は「自転車は女学生が乗るモノです、私はもう大人なので、今日で最後なんです。」といった趣旨の言葉を言ったと思いますが、そこがキーポイントかと思います。すなわち、彼女は、少尉と初めて出会った頃の、少女時代の自分に別れを告げるわけですよね・・・。少尉の置かれた事情をきちんと把握し、自分の大切な気持ちは胸の奥にしまっておくと決めた自分は、もうあの頃(少女時代)の自分ではない、もう大人になったのだ、と。坂を走りながら号泣していたと思いますが、あの坂が彼女を大人に変えたのだと思いました。冗談社で働くようになってからは路面電車で移動していることからも、その決意の強さを窺い見ることができますね。
ちなみに、2番目にグッときたシーンは、編集長との結婚式当日、編集長が紅緒に対して、「来たな、恋人」と言うシーンです。
この台詞は、漫画の通りなんですね!すごく素敵だなあと思いました。少しキザな感じがするかもしれませんが、編集長にはそういった感じがとてもよく似合う気がします。そもそも存在自体がロマンチックだからかもしれません。
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さて、最後は少尉と結ばれて、子供も生まれてハッピーエンド・・・ということになりましたが、私としてはどうも編集長が気の毒でなりません。
関東大震災による火災の中で、馬に乗って紅緒を助けに行くことができる少尉と、濡らしたジャケットを被り徒歩で助けに行こうとする編集長が、なんとなくですが、対比的に描かれていたように思います。編集長は、瓦礫のせいで上手く教会に近づくことができずにいましたが、その姿は、なんとも無力に見えたのです。しかし、無力ながらにも一生懸命紅緒を探し、助けようとしてくれたわけですよね・・・そんな中、少尉のほうが先に紅緒を発見し、助けるという・・・編集長は運命の相手じゃない、ということなのでしょうか。
私的に一番謎なのが、編集長が少尉を殴った後に、少尉も編集長を殴るというシーンです。思わず『なぜ少尉も殴る!??』と叫んでしまいました。つくづく編集長は気の毒です。
また、編集長と紅緒とが指輪の交換をしようとした、まさにその瞬間に未曾有の大地震が発生したわけですから、編集長にとって、この経験はトラウマになるかと思います・・・あくまでも個人的な想像ですが・・・。自分がしたことは、神様がお怒りになるようなことだったのかもしれない、などと考えるかもしれません。
ちなみに、私は編集長推しです笑
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ついに『はいからさんが通る』の漫画を購入しました!(講談社漫画文庫の方です)
映画との違いを楽しみながら、少しずつ読み進めていきたいです♪
『愛していると言ってくれ』のラストについて、自分なりの感想
これまで当ブログでは、本のこと、シャンメリーのこと、ラムネのこと…等、様々な話題について触れてきましたが、今回はドラマ関連の話題を取り上げてみようと思います。記事に一貫性がなくて、申し訳ありません。
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5月31日から、3話ずつ、4週間にわたって放送される、TBSの名作ドラマ『愛していると言ってくれ』について、少し個人的なコメントを述べたいと思います。
1995年の作品なんですね。あんまり年がばれるのでアレですが、私はこのドラマのリアルタイム世代ではありません。そのため、今回観るのが初めてなんです。
とはいえ、私は昼のワイドショーの後の、ドラマの再放送をなんとなーく観ていた人間ですので、90年代後半~00年代前半くらいのドラマには親しみを持っています。あの独特の、色が全体的に薄い感じとか、くっきりしていない感じ(ぼんやり感が独特の世界観を醸し出す)とか、画面のサイズとかに懐かしさを覚えますし、そちらのほうが安心という感じです。テロップのフォントとか、文字の影の感じとか、オープニングがしっかりオープニングにあることとかも、一昔前のドラマならではという感じですごく好きです。
前振りが長くなっていしまいましたが…『愛していると言ってくれ』を初めて観て、衝撃的だったことは、
・豊川悦司はめちゃくちゃ爽やかイケメン
・当時からゆるっとした服装が流行っていたこと
・常盤貴子の髪型がめちゃくちゃ可愛い
・服装も可愛い
・FAXが二人の重要な情報伝達手段になっているということ
・オープニングの映像がきわどい
ということですね。
私のトヨエツさんの印象が、20世紀少年ですね…ちょっといかつめ?のダンディーなおじさんというイメージでした。ですので、このドラマを観た時には衝撃でした。「え!全然今と雰囲気違う!」と。目元のキリッと感とか、儚げな感じとか、もう最高です。
本当に素敵ですね。もうかっこよすぎる。髪型も、当時の流行?が少し入っているのでしょうか。前髪が、前にも少しふんわりと出ているという感じで、すごく好みなんです(個人的な意見)。
そして、常盤貴子さん、本当に可愛らしくて、そして美しいですね。上目遣いがとにかく自然で(全くあざとくない!)可愛くて、少し幼い感じもあって、たまらないです。
髪型、服装といい、すっごく自分の好みなので、観ていてもう本当に楽しい限りです。
様々なネタバレ・あらすじブログを読ませていただきました。
なるほど、最後に二人は別れてしまうけれども、3年後にまたあのリンゴの木のところで再開して微笑み合って…という感じなんですね。
そもそもハッピーエンドなんですかね?
あくまでひねくれた考えではありますが、紘子はまだ若いから、昔の話としてそれは完結してしまっているのではないか、なんて考えてしまいました。ただ、そうだとしたら、知らんふりをして通り過ぎるか、お互いに新しいひとと一緒にいて、少し振り返るとか…そんな感じになると思われるのです。
けれども、二人は微笑み合うわけですから、またそこから始まる、と捉えていいはずですよね!
3年という時を経て、紘子は大人になる必要があったんでしょうね。
晃次の完成させた、3年後に賞を取った絵についても、絵にすることで紘子との思い出を昇華させたとも取れるかなと思ったのですが、そういう風に捉えるべきではなく、3年間、晃次の心の中に紘子がいた、と捉えるほうが素直でしょうね。
お互いに未完全なまま、出会ってしまっていたけれど、3年間が準備・成長期間になって、成熟した状態で、出会うべくしてまた二人は出会った、と捉えたらいいのでしょうね。そう考えると、晃次もまだ未熟だったということなんでしょうね。自分が傷つくのが嫌だから、自分の殻に閉じこもりすぎていて、それが相手を傷つけてしまったという見方もできなくはないでしょうし…お互いが将来に幸せな恋愛をするために必要不可欠な3年間だったと捉えられそうです。
ちょっとクサい言い方ですが、運命の恋だからこそ二人は出会う、ということなんでしょうね!!
りんごについても、これは恋愛を象徴してそうですよね~"熟した"とかそのような意味でです。
もう一つの謎です。
なぜ別れる必要があったのかということです。
これに関しては、紘子の中で不信感がぬぐいきれなかったということがあるんでしょうね。相手は大人ですから、自分より知っていること、経験していることがたくさんありますから、なんとなく信じきれないというか、少しでも元カノとかが出てくると「騙されてる?遊ばれてる?」という感情が生まれますよね。(元カノも指輪を置いていくなんて意地悪ですね…若い子に向かって大人げないですし、なんだか粘着質な感じがあって、苦手なタイプの女性ですね…。)
あと、自分は相手には似合わない、など。(大人同士での恋愛はわかるけど、子供と大人は不格好と感じたのですかね。)紘子の若さゆえですよね~。これについてはなんとなく分かる気がします。
逆に不信感を描かなかったら、それはそれで単細胞な感じですよね。
批判ではないですが、今の恋愛物語って、疑いがあることが起こっても、相手がなんやかんやすぐ信じて、(しかも1話で!)関係が修復することがほとんどで、なんだかあんまりしっくりきませんね。最近の子は、ことなかれ主義なんですかね~。当事者だったならば、やっぱり不信感をもって当然ですよ!!
あと、元カノを家に泊めてしまった晃次も悪いですよね。タイミングも悪いですし…。晃次は優しすぎるんでしょうね…まぁこれは仕方ないですね。
もう一つ、紘子がふらふらしすぎですよね。
もしここで、そのままケンちゃんのことを部屋に放置なんてして、優しく受け止めてくれる晃次のほうに行ってしまったら、それこそ視聴者は紘子に対して反感を抱くでしょうね。そもそも、オトナへの不信感から、衝動的に幼馴染と関係をもつ紘子の精神的な幼さは、見ているこちらも「う~ん」という感じですよね。
晃次にとってはかわいそうではあるけれども、紘子は自分に懲罰的な意味で別れを選んだ、と捉えればいいんですかね~。"自分が自分を許せなくて!"みたいな感じでしょうか。それでもいったん立ち止まって考えてみてほしいですよね。
ケンちゃんに謝るのは必須として、さらに晃次と別れるということは、さらに傷つける人を増やすということになりませんかね??晃次は、そういう紘子も好きだよ~みたいなことも言っていたはずですけど、なんでそれでも紘子は別れを選んだのですかね。やっぱり、不信感ということにするしかないですかね。このまままた晃次のところに戻れば、また同じようなことが起こるだろうし…みたいなことを紘子は言うそうですが、これはやはり相手の過去を受け入れきれない自分の未熟さから、そのような選択をしたと考えることにします。そのまま交際をしたとしても、やっぱり元カノの影がちらついて、当たったりしてしまいそうなんですかね?世の中そういうものなんですか?3年間は時間薬ととらえますか?
3年間で、想いがより強固になった、と考えることもできそうですね。
いずれにせよ、紘子の自立は必須だったでしょうね。1人前になってからもう一度やり直す、みたいな、別れをエネルギーにして独り立ちできる大人になるっていう感じの要素は必要だったということですかね。
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こうやって、あれやこれやとじっくりと考察したくなるほどに、お二人の演技が素晴らしいものであると感じました。すっごく物語に引き込まれ、夢中になります。
余談ですが、もう1つ。
携帯、電話がないからこんなことになってしまったんだ、みたいな風に言われますが、逆に今は相手の私生活が見えすぎるからこそのトラブルもありますし、まして昔よりもこっそり浮気できるようになっていますから…私は昔のほうがいいと思います。
私たちは、便利さと引き換えに信じる心を失ったと思います。
最近の子が「僕(私)のことを信じて」って、すぐに言い出すところが苦手ですね…聞くだけでゾッとします…批判ではなく、個人的な意見です。
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とにかく書いていて歯がゆい気持ちになりました。(笑)
現代っ子なので、やはりはっきりわかる"その後"というのが欲しいんです。
たとえば、結婚式の写真が映って終わるとか、その後の二人が映るとか…。曖昧なふわっとした終わり方のほうが、芸術的ではあるんでしょうね。想像力を掻き立てるという意味で良さそうですかね。
25年前のドラマなので、その後を作ることは難しいんですかね??是非TBSさんがその気になったら、今のお二人での続編を作っていただけたらいいですよね。続編ができたらできたで、「あの頃の美しい思い出をそのままにしてほしい」と仰る方がたいていいらっしゃいますから、難しいのはよく分かります苦笑
いずれにせよ、あのときにはもう戻れない…というのが一番つらいです!
ドラマを観ていると、昔に戻れるような気がするんですが、終わった後には令和2年を生きていることに気づかされて、虚無感だらけ…です。
過去の名作ドラマを再放送することの唯一の欠点は、これかも知れません…。
ただ、『愛していると言ってくれ』という作品自体が素晴らしく、名作であることには変わりありません。
結論を知ってから観るので、元カノが出てきてもなんとか耐えられると思います。(笑)
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
おうち時間の過ごし方のアイデア~私が実践したもののみご紹介~
お題「#おうち時間」
おうち時間を少しでも充実したものにするために、またおうち時間の過ごし方がマンネリ化して憂鬱にならないようにするために、私なりに色々な手法を試してみました。
いくつかご紹介したいと思います。
①本を読む
私は普段はあまり本を読みません。去年読んだ本の冊数は、3冊でした。しかし、今は時間がたくさんあるので、去年よりも断然本を読むようになりました。外出自粛期間中だけで、10冊も読むことができました。
やはり、普段であれば時間に追われているがために、精神的に焦ってしまい、なかなか本を読む時間を確保することができません。時間がある今だからこそ、普段本を読まないという方も本を読んでみてはいかがでしょうか。
②漫画を読む
時間があるときこそ、好きな漫画を全巻読破したり、気になっていたけれどもなかなか時間がなくて読むことができなかった漫画を読んだりするのもいいと思います。
個人的には、ebookjapanとピッコマがおすすめです。
ebookjapanは、ブラウザでもサクサク読めるし、色んな漫画が試し読みできます。そしてなんといっても、最大3巻、5巻といったように、無料でたくさん読める場合もあります。
ピッコマは、待てば0円でおなじみですが、実際に多くの待てば0円で読むことができます。世の中のすべての作品が待てば0円で読めるとは限らず、また、作品の最後まで無料で読めるとは限らないのですが、それでも断然お得な漫画サイトだと思います。待てば0円、つまり23時間(時短アイテムを使えば22時間)で1話読めるのですが、それが毎日の楽しみになっています。
③絵を描く
私は昔、小さいころは絵を描くのが好きだったので、時間ができた今、また絵を描いて楽しんでいます。絵を描いている間は、目の前の絵に没頭できるので、色々な不安や焦りを忘れることができ、またそれを通じてリラックスできるため、とてもいいと思っています。
④ライブDVDを観る
ライブに行けないからこそ、おうちでライブ!ということで、家でライブDVDを観て楽しんでいます。買った当時は時間がなくてあまり見れなかったDVDを、今じっくり見返してみたり、好きな部分を繰り返し見てみたり…という風にしています。
音楽も楽しめるし、映像も楽しむことができるので、おうちに居ながら気晴らしができると思います。
最近は、アーティストやレコード会社が、ユーチューブ等でライブ映像を無料公開してくださっていることもあって、楽しみの幅が広がったように感じています。とても感謝ですね!
⑤音楽を聴く
普段は、電車に乗って移動することが多かったので、ウォークマンで音楽を聴くのがほとんどでした。今は一切電車に乗らなくなり、ウォークマンもあまり使わなくなってしまったので、あえておうちにあるラジカセ、コンポなどで音楽を聴くようにしてみました。普段はあまりラジカセ、コンポ等は使わなかったので、新鮮さを感じますね。
ウォークマンからBluetoothで接続して音楽を聴くのもよし、CDを取り出してきて聴くのもよし、何でもありだと思います。いつもと違う方法で聴いてみる音楽は、同じ曲だとしても、違った風に聞こえる気がしませんか。
⑥部屋の片づけをする
今まで忙しくて、積みっぱなしにしていた書籍や、散らかしっぱなしにしていた小物をきれいにしたり、整理整頓したり、収納したりするようにしました。部屋が綺麗になると気持ちも軽くなっていいですね。外出は自粛すべきですから(家具を買いに行ったり、雑貨を買いに行ったりなど)、大規模な部屋の模様替えは難しいですが、家具を動かしたり、家にあるもので工夫したりして、ちょっとした部屋の模様替えをするのもいいなと思っています。
⑦折り紙をする
意外にも、折り紙がすごく楽しくて、すごくハマってしまいました。昔は作ることができなかった、折り紙の本に書いてある作品を作ることができた時の達成感は素晴らしいです。個人的におすすめしたいのが、ユニット折り紙を作ることです。例えば、くすだまを作ることです。1つ1つ、ユニットを地道に丁寧に折っていって、ユニットがそろったときに、それを組み合わせて立体を作るという1連の流れが、とにかく楽しいんです。完成したくす玉は、部屋に飾ってもきれいだし、眺めても楽しいと思います。
⑧あやとりをする
あやとりなんて小さい子の遊びだと思われる方も多いかもしれませんが、実際にやってみるととても楽しいということに気づかれると思います。
あやとりの本(もしくはウェブサイト)を見ながら、色んな作品を作ると、手指の運動になるし、頭も使うし、時間を忘れて楽しむことができるし、いいことがたくさんあると思います。やはりあやとりも、小さいころは出来なかった技が、オトナになった今できるようになるということを通じて、達成感を感じますね!
⑨アルバムを作る、見る
これまではずっと忙しくて、撮った写真はデータのままになっていたり、写真を印刷したはいいものの、紙袋に入ってそのままになったりしていました。そこで、片付けの意味も含めて、写真を整理したり、アルバムに入れたり、現像したりすることにしました。今は外出できないからこそ、過去の思い出に浸って、時間を忘れるのもいいなと思いました。
実際に私が実践したものは、以上になります。
他にも、楽器(ギター)の練習、体を動かす、縄跳びをするなど、色々とやってみたいことがあるので、取り組んでみたいと思っています。
おうちの中でできることも、外に遊びに行ってできることと同じくらいあると思います。それを考えたり、見つけたりする時間もまた、おうち時間の楽しい過ごし方だと思っています。
藤巻亮太さんの「本の読み方」
私は最近は岩波文庫を読むのが好きなのですが、岩波文庫の公式Twitterで、歌手である藤巻亮太さんのエッセーが紹介されているのを見つけました。
この記事では、藤巻さんが、西田幾多郎『善の研究』(岩波文庫、2012年)を読み、内容理解に取り組んだ話が書かれています。
私がこの記事を読んで、ハッとさせられた部分があります。
はじめて1ページ目を開いたとき、そこに何が書いてあるのかまったくわからなかった。僕はもちろん日本語が母国語だし、普通に教育も受けている。だが、この本を読み始めたとき、ガラスの壁にむかってロッククライミングをしているかのようだった。どこにも指がかからず、どこにも足がひっかからない。そんな錯覚におそわれたのだ。
難しい哲学書に限らず、法律や政治学の本でもそうなのですが、日本語で書いてあるからと言って、理解できず、文字の上をただ滑るだけの感覚に陥ることがあります。文章の意味、中身が全く頭に入ってこない、内容を理解する手掛かりとなるものすら見つからないことがあるのです。
(このような感覚のことを「ガラスの壁にむかってロッククライミング」と表現するとは、さすがミュージシャンで、表現力に富んでいるなと思いました。)
その理由としては、自分の知らない日本語が使われていること、その文章の前提となる事項、つまり背景となる事情や時代背景を知らないことが挙げられると、私は考えています。
そしてその後、藤巻さんはこの本の内容を理解するために、以下のような取り組みをしたと語っています。
まずは一度とにかく通読した。2度目は図書館にこもり、わからない言葉や、わからない概念などは辞書をひきながら、自分なりにこうではないかと解釈したことを付箋に書き込み、それを張り付けながら読み進めた。通算で何度読み返したかわからない。そして、その後、大学の先生や作家などが集まって『善の研究』を議論する場にも運よく飛び込みで参加させてもらうなどわかろうと努力はした。
( この記事には、付箋がたくさん貼られて膨らんだ文庫の姿の写真が掲載されている。)
この藤巻さんの語るところから、藤巻さんにとっての「本の読み方」は、以下のようであると分かります。
・まずは通読
・わからない言葉、概念を調べる
・自分なりの解釈を付箋に書きこみ、貼り付ける
・他者と話し合うことで理解を深める
とくに最後の他者と話し合って理解を深めることは、大変有益なことだと思います。自分の解釈を、他の人に客観的に捉えてもらえる機会であり、また間違った部分があればそれを是正することができる機会であり、さらに考えもしなかったような新しい発想を得ることができる機会であるからです。
しかし、他者に自分の解釈を伝えられるようになるまでが大変ですよね。しっかり内容を自分の中に落とし込み、かみ砕き、また、それを自分の言葉で説明できるようにするのです。私は、この段階が一番苦しく、辛いものであるとともに、自分とじっくり向き合うことができる贅沢な時間であると感じています。
余談ではありますが、飛び込みで「『善の研究』を議論する場」に参加するほど、この本の内容を理解したいという強い思いを持っていて、とても尊敬します。これこそまさに、「研究する」ということなのだと思います。私もこういう姿勢を見習わなければと思いました。
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この記事を読んで、私は『なるほど、こういう読み方があるのかぁ。すごいなぁ。』とただただ感心してしまいました。
私はこれまで、そのように一冊の本ときちんと向き合ったこともなければ、藤巻さんのような本の読み方を実践したこともなかったのです。
私はそもそも読書が苦手な人間なので、長期間同じ本を読むのが嫌いで、新しい本を手に取ることをモチベーションにして本を読むような人間なんですよね…。
ただ、最近は読書を頑張って意識的に生活に取り入れるようになったので、いくらか本に対する抵抗感は取れました。そこで、もう少し本の内容に深く入って読むような習慣をつけようと決めました。
藤巻さんの、この「本の読み方」は大変参考になりますね。
私もこれをきっかけに、自分なりの「本の読み方」を見つけていきたいと思います。
光文社古典新訳文庫と岩波文庫の比較 〈選択のための判断材料〉
まず最初に断っておきたいことがあります。
それは、私が読書初心者であるということです。
それゆえ、本全般に対する知識が非常に少ないのです。
「"読書初心者"とは何ぞや」と思う方は多いかもしれません。
この"読書初心者"という言葉には明確な概念はありません。私としては、"圧倒的に読書量が少ない人"であるということを表現したいのです。
私は、もうすでに成年ではありますが、読んだ本の数をほかの人と比べるならば、半分以下だと思います。昔から本を読むのは、学校の朝読書の時間くらいで、趣味で本を読むということは全くしてきませんでした。そのため、世間一般の人が読んだことがあるような作品を読んだことがなかったり、知らなかったりします。
"本"について語るとしても、自分のわかる範囲でしか語ることができず、またその"自分の分かる範囲"というのも、他の人に比べれば、非常に狭いです。
しかし、知らないくせに、色々と語りたいことが出てきてしまうのです。
ということで、私が分かる範囲で、"本"に関することについて語ってみたいと思います。
以上の事情に了解いただける方は、以下読み進めていただけたらと思います。
~・~・~・~・~・~・
最近になって初めて「光文社古典新訳文庫」を購入してみました。
購入したのは、カント(著),中山元(訳)『道徳形而上学の基礎づけ』(2012年)です。
もともと岩波文庫から出ている、カント(著),篠田英雄(訳)『道徳形而上学原論』(1976年)を読んだことはあるのですが、もう一度読み直して、理解しなおしたいと思い、光文社古典新訳文庫から出ている同著を購入しました。
この異なる2つの出版社から出ている、同じ作品を読んだことで、いくつかの違い(比較)があると思ったので、いくつか挙げてみたいと思います。
どちらが読みやすいか、どちらが良いかを判断するための材料となれば幸いです。
1 光文社古典新訳文庫は、訳が誰にでも分かりやすい
岩波文庫に対しては、一般に「とっつきにくい」とか、「難しい」といったイメージを持たれているようで、実際に私の周りにいる人も、そういったイメージを持っているようです。(だからこそ、読んでいることを自慢する人もいました。『お前らが難しいと思っている本を、おれは読んでるんだぜぃ~』みたいな意識から来ているのでしょうか。)
確かに、訳に関しては、言葉遣いが少し古めかしかったり、古語に近い部分もあったりして、さらっと読めるものではないと思います。一発で頭に入ってくる文章か、と聞かれれば、そうではなく、何回か返り読みしないと意味をきちんと理解することができない文章も多い、と答えることでしょう。
光文社古典新訳文庫は、とにかく訳が平易なものに改められていると感じます。カントの著作を読んでいる中で、特に理解に苦しまれる言葉である「悟性」「格率」といった言葉を使わず、わかりやすい言葉に換えて訳されているそうです。正直、これらの専門用語(?)の概念がある程度理解できていないと、外国語の文献を読んでいるような気分になるので、そのような難点を解消してくれるのは、本当にありがたいと思います。
また、私個人が一番理解に苦しんだ言葉である、「理性的な存在者」が何であるかが、この光文社古典新訳文庫を読んでようやくわかりました。
訳に、訳者による言葉の補いや、言い換えがされているために、そこまで立ち止まって苦しむことなく読み進めることができます。
この文庫の理念が、しっかりと体現されていると感じます。
岩波文庫の訳が分かりにくいと言っているわけではありません。
できる限り原文に近い訳が良いのならば、やはり岩波文庫がいいのかなと思います。光文社新訳古典文庫では、文章を平易にするために、言い換えたり、現代風の訳にしたりしていますから、多少原文とのズレは大きいのかなと思います。(あくまでも個人的な感想です。)
そもそも原文を読めば、翻訳によるズレのようなものを考える必要はないわけですよね。訳がしっくり来なくて、なおかつ意味が理解できない場合は、原文を引っ張ってきて、自分の言葉で訳しなおせばよい話です。
結論として、一概にどちらのほうがいいと言うことは、絶対にできません。自分にしっくりくる訳はどちらか、という基準で判断したほうがいいと思います。
2 岩波文庫は、タイトル数が多い
やはり岩波文庫は昔から発刊されているだけあって、タイトル数が多く、ジャンルも多岐にわたります。
光文新訳古典文庫は、2006年創刊(!)であり、まだ創刊14周年だそうです。それゆえ、まだタイトル数もそこまで多くありません。
それゆえ、岩波文庫からは出ていても、光文社新訳古典文庫からは出ていない作品というものがあります。例えば、岩波文庫では、イェーリング(著),村上淳一(訳)『権利のための闘争』(1982年)はあっても、光文社新訳古典文庫からはまだ出されていません。
また、ハンスケルゼン(著),長尾龍一・植田俊太郎(訳)『民主主義の本質と価値』についても、岩波文庫からは出ていますが、光文社新訳古典文庫からはまだ出されていません。
個人的な感覚ですが、岩波文庫の白(法律・政治)に分類されるような作品については、まだあまり光文社新訳古典文庫からは出されていないようです。
岩波文庫の白に分類される作品を読みたい人は、岩波文庫、もしくはほかの出版社という選択になりそうです。
3 光文社新訳古典文庫は、親切な解説がついている
大学の授業やゼミで、その本を取り扱うわけではない場合、つまり独学でその古典を読む場合には、当然のことながら内容についての解説をしてくれたり、わからない箇所の質問に答えてくれたりする人がいるわけではありません。
そうすると、どうしても誤った理解をしたままになってしまうことも多いかと思います。
光文社新訳古典文庫には、巻末に丁寧で親切な解説がついているものが多いようです。(すべての本を調べたわけではないので、すべての本に解説がついていると断言することはできませんが、少なくとも中山元さんが訳されたカントの著作については、丁寧な解説がついているようです。)
『道徳形而上学の基礎づけ』について言うならば、本当に解説が分かりやすかったです。なにより、現代的な要素に、カントの哲学を落とし込んでくれているところが本当にありがたいのです。また、カントの言葉を使いながら、中山さんの言葉で解説してくださっているという感じで、わかりやすく、大変理解の助けになりました。なんと、解説に、その本の半分に近い量を割いてくれています。
つまり、この光文社新訳古典文庫では、まず先に本体の文章を読んで、その後に解説を読むことによって、自分の誤った理解を改めるとともに、より深い理解(『最初に読んだ時はいまいちよく分からなかったけど、なるほどそういうことだったんだ!』のような感覚)を得ることができると思います。
もちろん、解説を読んでから、本体の文章を読むのもいいと思います。忙しいときや、先に前提となる知識を理解してから読みたいときに良いと思います。
4 その他、個人の趣味によって左右されるもの
個人の持っている感覚によって、どちらの文庫が好きか、左右されるものとして以下のものがあると思います。
文字の読みやすさ
岩波文庫には、ギュッと文字が詰まっているものや、やたらと字が細かいものなど、さまざまなレイアウトのものがあります。行間が詰まっていると、読みづらいと感じる人も多いかもしれません。実際に、私は行間が詰まっていて、なおかつ字が小さいと読みづらく、ストレスを感じてしまいます。
逆に、光文社古典新訳文庫は、読みやすさに気を遣っているだけあって、文字のレイアウトにも気を遣っているように思われます。
『道徳形而上学の基礎づけ』に関して言えば、光文社新訳古典文庫のほうが読みやすいと感じました。
表紙のデザイン
現在、"パケ買い"という言葉が存在しますが、それくらいパッケージ、見た目は、販売戦略において重要な要素なのかもしれません。
岩波文庫は、伝統を感じさせるデザインだと思います。余計な要素など一切なく、タイトルがドーンとあって、なぜか左寄りに本の紹介が、絵の周辺に書いてあるというデザインですが、私はこのデザインがすごく好きです。落ち着いていて、知性を感じさせてくれるからです。また、本棚に並べた時の統一感も非常に素晴らしいです。作品の分類によって、背表紙の色がはっきりと分かれているのも、また良いなと思うのです。
岩波文庫の作品の分類方法
光文社新訳古典文庫は、人の顔のようなものが大きくデザインされており、タイトルが書かれています。このタイトルが一律に本の上部に置かれていないところが現代的だと思います。また、こちらについても、作品の分類のためにカラーリングがされています。岩波文庫とは異なる分類方法で、作品の言語圏別に分類されているそうです。
光文社新訳古典文庫の分類方法
また、その他の違いとして、岩波文庫は天(本の短辺の上の部分)がアンカットになっているのに対して、光文社新訳古典文庫はきれいに切りそろえられていること、岩波文庫は表紙がツルツルなのに対して、光文社新訳古典文庫は少しスベスベ?なにか透明な膜がかかっているような感じがすること、など小さな違いがあります。
5 まとめ
岩波文庫と、光文社古典新訳文庫、どちらが読みやすいか、どちらが良いか、については、
あなたの好みで決めればよいと思います。
あくまでも私がこれまで書いてきたことは、どちらの文庫が欲しいかを判断してもらうための一種の材料であって、『Xの文庫のほうが良いから、Xの文庫を買いなさい!』と言うものでなければ、文庫の批判をしているものでもありません。
私個人がどのようにして、どちらの文庫を買うかを判断しているかというと、読みやすさと訳のわかりやすさを基準にして考えています。(俗な欲求としては、本棚を岩波文庫の背表紙で埋めてみたいと思っているのです…(苦笑))
文字のレイアウト的に読みづらそうだったり、解説が欲しかったりするときは、光文社新訳古典文庫で買おうと思っています。しかし、岩波文庫からしかその作品が出ていない場合や、解説なしで本文だけ読みたいと思うときは、岩波文庫で買おうと思っています。